臨済宗 黄檗派 発祥の地
りんざいしゅうおうばくははっしょうのち
長崎電軌 公会堂前停留所から南東に300m。港を見下ろす風頭山の山麓,寺町に並ぶたくさんの寺のほぼ真ん中に興福寺(長崎市寺町4-32)がある。朱塗りの豪壮な山門の前に,長崎市が設置した「県指定史跡 興福寺寺域」という説明板があり,ここに興福寺が「臨済宗黄檗派 発祥の地」であることが記されている。
黄檗宗は臨済宗・曹洞宗とならぶ 禅宗の一つ。本山は京都 宇治市の黄檗山万福寺であるため,宇治市で興ったと考えられがちだが,実は長崎が発祥の地である。
興福寺は、明(中国)の商人が長崎に渡来しはじめた 1620(元和6)年に,中国の僧 眞円が 航海安全を祈願してこの地に小さな庵を作ったことに始まる。江戸時代初期の長崎には諸外国から商人や物資が集まる国際都市となったが,中でも中国からの来航者が圧倒的に多く,長崎市民の6人に1人は中国人というほどで,彼らが出身地別に寺を建立したのが興福寺・崇福寺・福済寺などのいわゆる“
この時代はキリシタン禁令が厳しくなり,長崎在住の中国人にもキリシタンの疑いがかからぬよう,仏教徒であることを誇示するために唐寺を建てたともいわれる。
3代目住職
隠元は 長崎滞在の1年後,招きに応じて江戸に上り将軍家綱にも謁し,京都 宇治に故郷黄檗山と同じ名前の黄檗宗大本山万福寺を開山し多くの人々に慕われて81歳でこの地に没した。
なお 黄檗宗は当初 臨済宗の一派(黄檗派)と称していたが,正式に「黄檗宗」の名称が使われるようになったのは明治9年(1876) に政府によって認められてからである。明国の高僧隠元禅師の渡来によって新しい明朝の文化が採り入れられ,建築・彫刻・書画・茶道・料理など 黄檗文化が江戸時代の日本に与えた影響は非常に大きかった。
写真
碑文
県指定史跡 興福寺寺域
指定年月日 昭和36年11月24日
所在地 長崎市寺町64番地
所有者 興福寺興福寺は,元和6年(1620)創建されたわが国における最初の唐寺です。開基は江西省出身の眞圓,寺地は元欧陽(おおうよう)氏の別荘でした。眞圓は 寛永12年(1635)まで住職を務め,その後二代目には,眼鏡橋を架けたといわれる黙子如定(もくすにょじょう)が住職に就きました。
承応3年(1654)三代逸然性融(いつねんしょうゆう)は,新しい禅宗の日本への伝来を熱望し,福建省黄檗山万福寺の隠元禅師を招き,隠元を住職に推 薦し,自らは監寺に下りました。明暦元年(1655)隠元が東上すると,翌2年正月から中興二代澄一道亮(ちんいどうりょう)が住職を勤めるようになりま した。
興福寺は,臨済宗黄檗派(明治9年から黄檗宗)発祥の地として記念すべき地となっています。長崎市教育委員会(平成14年)
Prefectural Historic Site
Kofukuji Temple PrecinctsDate of Designation November 24, 1961
Location 64 Tera-machi, Nagasaki City
Owner KofukujiKofukuji was founded in 1620 by the Chinese priest Zhenyuan, a native of Jiangxi Province.Japan's first Chinese Zen temple, the facility was established on land owned by Chinese resident Ouyang, Zhenyuan served as resident priest until being replaced in 1635 by Mozi Ruting, who is said to have supervised the construction of Meganebashi (Spectacles Bridge).
In 1654. yearning to introduce the latest school of Chinese Zen to Japan, the third-generation resident priest Yiran invited Zen Master Yinyuan (Japanese: "Ingen") of Obakuzan Manpukuji in Fujian Province to Nagasaki, transferring his post to the latter and taking a lower position himself. Yinyuan moved to the Kyoto area in 1655 and in February the following year was replaced by Dengyi.
Kofukuji is the historic birthplace of the Obaku School of the Japanese Rinzai Zen Sect (designated as the "Obaku Sect" in 1876).Nagasaki City Board of Education (2002)
현지정사적 고후쿠지 사찰지역
지정연원일 쇼와 36년 11월 24일
소재지 나가사키시 데라마치 64번지
소유자 고후쿠지고후쿠지 사찰은 1620년(겐나 6년)에 창건된 일본 최초의 당나라 사찰입니다. 사원을 창립한 것은 중국 강서성 출신의 '진원' 으로, 사 원은 원나라 ‘구양' 씨의 별장이었습이다. '진원’ 은 1635년(칸에 이 12년)까지 주지승으로 있었고, 그 후 2대째에는 메가네바시를 가 설했다고 전해지는 '모쿠스 뇨죠'가 주지승으로 있었습니다. | 1654년(죠오 3년)3대째 '이츠넨' 은 새로운 선종의 일본전 래를 열망하여, 복건성 황벽산 만복사의 '인겐 선사'를 초대하 여 주지로 추천하면서, 자신은 감사로 물러났습니다. 1655년(메레 키 원년), ‘인 겐’ 이 동경으로 떠나자. 이듬해 정월부터 중흥 2 대 ‘친이' 가 지주승이 되었습니다. | 고후쿠지는 임제종 황벽파(메이지 9년부터 황벽종)의 발상지 로써 기념할 만한 곳입니다.
나가사키시 교육위원회 (헤세 14년)
县指定历史遗迹 兴福寺域
指定年 1961年11月24日
所在地 长崎市寺町64番地
所有者 兴福寺兴福寺建于1620年,是日本最早建立的香寺。它由江 西省山出身的真圆主持建造,宅基为元欧阳氏的別墅。此后 至1635年山真圆担任该寺住持。曾负责架设眼镜桥的黑子 如定担任了第二任住持。
1654年,第三任住持逸然热切切待新的神宗能够传播到 日本,邀请来福建省黄檗山万福寺的隐 元禅师,并推荐他 担任住持,自己则改任监寺。1655年隐元尔上。第2年正月
起山中兴二代没一担任住持。
兴福寺成为临济宗或葉派(后改称黄奕宗的发祥地。长崎市教育委员会(2002年)