黄檗宗発祥の地

おうばくしゅうはっしょうのち

長崎電軌・公会堂前停留所から南東に300m。
港を見下ろす風頭山の山麓,寺町に並ぶたくさんの寺のほぼ真ん中に“興福寺”がある。
朱塗りの豪壮な山門の前に,長崎市が設置した「県指定史跡 興福寺寺域」という説明板があり,ここに興福寺が「臨済宗黄檗派(後に黄檗宗)発祥の地」であることが記されている。

黄檗宗は臨済宗・曹洞宗とならぶ 禅宗の一つ。本山は京都・宇治市の黄檗山万福寺であるため,宇治市で興ったと考えられがちだが,実は長崎が発祥の地である。

興福寺は,中国(明)の商人が長崎に渡来しはじめた 1620(元和6)年に,中国の僧・眞円が 航海安全を祈願してこの地に小さな庵を作ったことに始まる。江戸時代初期の長崎には 諸外国から商人や物資が集まる国際都市となったが,中でも中国からの来航者が圧倒的に多く,長崎市民の6人に1人は中国人というほどで,彼らが出身地別に 寺を建立したのが興福寺・崇福寺・福済寺などのいわゆる“唐寺(とうでら)”(あるいは“南京寺”)であった。
この時代はキリシタン禁令が厳しくなり,長崎在住の中国人にもキリシタンの疑いがかからぬよう,仏教徒であることを誇示するために 唐寺を建てたともいわれる。

3代目住職・逸然性融(いつねんしょうゆう)は 中国福建省の黄檗山万福寺住職であった隠元(いんげん)禅師を招請,隠元は 1654(承応3)年に63歳で長崎へ渡来し 興福寺の中興開山となった。
日本で初めて隠元禅師が入山したのが興福寺であったことから,長崎は我が国「黄檗宗発祥の地」とされている。
隠元は 長崎滞在の1年後,招きに応じて江戸に上り将軍家綱にも謁し,京都・宇治に故郷黄檗山と同じ名前の黄檗宗大本山万福寺を開山し 多くの人々に慕われて81歳でこの地に没した。
なお 黄檗宗は当初 臨済宗の一派(黄檗派)と称していたが,正式に「黄檗宗」の名称が使われるようになったのは 1876(明治9)年に政府によって認められてからである。

明国の高僧隠元禅師の渡来によって新しい明朝の文化が採り入れられ,建築・彫刻・書画・茶道・料理など 黄檗文化が江戸時代の日本に与えた影響は非常に大きかった。


 

興福寺 説明板
 興福寺 説明板
 臨済宗黄檗派発祥の地の文言が見られる

興福寺朱塗りの山門
 興福寺
 朱塗りの山門

写真


旧URL
http://hamadayori.com/hass-col/religion/Obakushu.html

碑文

県指定史跡 興福寺寺域
      指定年月日 昭和36年11月24日
      所在地   長崎市寺町64番地
      所有者   興福寺

 興福寺は,元和6年(1620)創建されたわが国における最初の唐寺です。開基は江西省出身の眞圓,寺地は元欧陽(おおうよう)氏の別荘でした。眞圓は 寛永12年(1635)まで住職を務め,その後二代目には,眼鏡橋を架けたといわれる黙子如定(もくすにょじょう)が住職に就きました。
 承応3年(1654)三代逸然性融(いつねんしょうゆう)は,新しい禅宗の日本への伝来を熱望し,福建省黄檗山万福寺の隠元禅師を招き,隠元を住職に推 薦し,自らは監寺に下りました。明暦元年(1655)隠元が東上すると,翌2年正月から中興二代澄一道亮(ちんいどうりょう)が住職を勤めるようになりま した。
 興福寺は,臨済宗黄檗派(明治9年から黄檗宗)発祥の地として記念すべき地となっています。
                   長崎市教育委員会 (平成14年)