追分節 発祥の地
おいわけぶしはっしょうのち
しなの鉄道 信濃追分駅の北西 約1km。 浅間神社(北佐久郡軽井沢町追分1155-7)の境内, 本殿手前の東側(郷土資料館下)に 大きな自然石でつくられた 「追分節発祥の地」碑が建っている。近くには 芭蕉の句碑 もある。
江差追分・松前追分・本荘追分・南部追分・秋田追分・越後追分……などなど 全国各地に「追分」と呼ばれる民謡がある。これらの源流は 信州追分宿で生まれた 「追分節(信濃追分)」だと言われる。
中山道・北国街道で唄われた「馬子唄」が追分の宿において酒席で唄われるようになり, 「追分節」と呼ばれるようになった。 これが全国に伝わり変化して その土地ごとの 独特の歌詞と三味線がついたものである。
写真
碑文
追分節発祥の地
碓氷峠の
権現様は
わしが為には
守り神浅間山さん
なぜ焼けしやんす
裾に三宿を
持ちながら
追分節発祥の歴史過程
江戸初期 軽井沢は関東・信濃・北陸方面を結ぶ玄関口として重要視され, 中山道が整備改修されると, 東海道と共に江戸と京都を結ぶ重要幹線として, 街道の様相も一変してきた。
慶長九年(一六〇四) 宿駅が制定され, 軽井沢・沓掛・追分の三宿が設けられ, 更に寛永十二年(一六三五)参勤交代制度と共に三宿は諸国の大名通過などで繁栄をきわめた。なかでも, 追分宿は中山道と北国街道の分岐点として栄えた。軽井沢は浅間根越の三宿として名高くかつ関東・上州方面への物資や旅客輸送の為, 東信一帯の中馬や馬子衆の一大集結となった。かかる歴史的・地理的条件からして必然的に労働歌的馬子唄が生まれる素地が十分にあった。「碓氷峠の権現様は わしがためには 守り神」
浅間山の自然や碓氷峠の熊野権現を, 馬子たちは自分の 守り神として畏敬の念を持って歌っていた。その馬子唄に軽井沢三宿の飯盛女達が, 一上り・三下り・本調子の三味線伴奏 の手を工夫した元歌と思われる馬子唄時代の代表的な歌詞 「わしがためには」の部分を諸客に対する語として「主のために は」と替えたり, 新作歌詞や囃子詞も付け「追分節」が完成された。 なかでも三下り調の追分節(馬子唄詞・座敷唄詞)は, その主流となって 諸国に広く伝承伝播され, 特に関東以北では 新潟県の越後 三下り(越後追分の母体), 秋田県の本荘追分になり, 更に北海道 に渡って 江差三下り(江差追分の母体)などに発展していった とされている。
かかる点から「追分節」は諸国にある追分節の源泉といわれ それが今日の定説となっている。「追分節発祥の地」
石碑建立実行委員会
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