六甲 植林 発祥の地

ろっこうしょくりんはっしょうのち

山陽新幹線の新神戸駅から北西に3km。六甲山地にある再度(ふたたび)公園の修法ヶ原しおがはら池西側の湖畔に,自然石を半分地面に埋め込んだ石碑がある。

現在は緑豊かな六甲山も,明治の中頃までは荒れたハゲ山であった。歴史をさかのぼると,豊臣秀吉が大坂城築城に際して六甲山から大量の花崗岩の切り出しを命じ,その際に「草木伐採勝手たるべし」との布令があったため,それ以来六甲山からの樹木の乱伐が続いた結果,このような荒廃を招いたと言われている。さらに江戸末期に神戸港が開港されて 周辺に多くの人々が住み着くようになると,燃料や建築資材とするため樹木の伐採が進み,明治初期には樹木が何もない 裸の六甲山となってしまった。明治14年(1881) に高知から船で神戸に旅した 植物学者・牧野富太郎博士は,白い岩肌が続き緑のない山の様子を見て「海上から六甲山の禿山を見てびっくりした。はじめは雪が積もっているのかと思った」と書いている。このため降雨による土砂災害がたびたび発生し,大規模な緑化事業の必要性が叫ばれるようになった。

一方,明治維新後、神戸は急速に都市化が進み,開港当時2万人余だった人口は,市制が施行された明治22年(1889) には13万人余に達した。急激な人口増加によって 井戸水を利用していた生活用水の水質の悪化が進み,毎年コレラ・赤痢などの伝染病が流行した。このような衛生環境を改善するために上水道の整備が必要となり、明治33年(1900) に生田川上流に布引貯水池が完成して公営水道が開始された。しかし 生田川上流域は著しく荒廃しており,大雨のたびに貯水池に泥流が流入する状況があり,水源を保全するために本格的な砂防工事と植林の必要に迫られた。

これらの状況から,明治35年(1902) より六甲山の大規模な砂防植林が開始された。最初に植林に取り組んだのは 再度山の北側の“修法ヶ原”と呼ばれたこの地で,試験的に黒松とヤシャブシを各1万本ずつ植栽して良好な結果を得たので,引き続き範囲をひろげて13年間に200万本余の植林が行われた。

植樹によって六甲山に緑がよみがえりはじめると,杉・桧・樫・アカシアなどの樹木も増え始め,現在のような緑豊かな山がよみがえった。現在,植林発祥の地となったこの地は,再度公園・再度山永久植生保存地・神戸外国人墓地として,国の名勝に指定されており,修法ヶ原池周辺は 六甲連山屈指の紅葉の名所となっている。

写真

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  • 六甲の緑
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碑文

六甲植林発祥の地

六甲の緑

今は緑におおわれている六甲山系も,明治の中頃まではほぼ全山が荒れるにまかせたはげ山でした。
明治36年にこの再度山ふたたびさんで松を中心とした植林事業がはじまり,その後全域で営々と植林が続けられた結果,今日の姿にかわってきたのです。
この先人の努力を受けつぎ,今後も緑豊かな美しい山となるよう努めていかねばなりません。

昭和62年11月22日
神戸市

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