三尺三寸玉 発祥之地
さんじゃくさんずんだまはっしょうのち
信越線 来迎寺駅から南へ4km、上越線 小千谷駅から北西に6km。浅原神社(小千谷市片貝町6548)拝殿に向って右手に広場があり,その中央付近に 丸い石の球を載せたモニュメントが建っている。また 浅原神社から500m程西の片貝郵便局の近くには,三寸・四寸・五寸・七寸・尺玉・二尺玉・三尺玉・三尺三寸玉・四尺玉と,9種類の打ち上げ用の筒が陳列された“煙火筒モニュメント”があり,打ち上げ筒の巨大さに圧倒される。
ここ小千谷市片貝地区では,浅原神社の秋季例大祭として行われる“片貝まつり”で 毎年奉納花火が盛大に打ち上げられる。明治19年(1886) に当時世界最大の花火として直径三尺の花火を打ち上げ「三尺玉発祥の地」を標榜していた。その後 同じ新潟県内の"長岡祭り"でも 三尺玉が打ち上げられるようになり,大玉の打ち上げ花火のお株は 長岡に奪われる形になった。
これに対抗して片貝でも 大玉花火を復活させる活動が行われ,昭和57年(1982) に三尺三寸玉の打ち上げに成功し,この地に「三尺三寸玉発祥之地」の記念碑が建立された。さらに その翌々年には四尺玉の打ち上げに成功し,世界で最大の花火としてギネスブックに登録された。直径1.2mの四尺玉は,地上800mまで打ち上げられ,開いた花火の直径も800mと言われる。現在の花火の打ち上げ技術では この四尺玉が限界と言われ,その後 30年経った現在でも記録は破られていない。
浅原神社の「三尺三寸玉発祥之地」碑の隣には,“本田善治翁像”と書かれた胸像がある。
写真
碑文
三尺三寸玉発祥之地
一九八三 昭和二十八年四十二才厄払記念
(芳名多数略)
昭和五十八年九月吉日 仲友会
石工 諸我石材店
本田善治翁像
讃
本田善治翁は旧三島郡片貝村(現在小千谷市片貝町)に父本田政七・母本田キシの三男として大正九年八月二十七日に生まれる昭和八年三月二十五日三島郡片貝村立片貝尋常高等小学校卒業昭和十六年一月二十日自動車第七連隊に入営昭和二十年六月陸軍伍長に任官同年十月八日除隊その後昭和二十五年十月から昭和二十六年十二月マドロスパイプ製造の秀光社に従事し昭和二十七年一月から旅館業「片貝館」を経営
片貝煙火協会長を昭和三十八年より平成四年までの三十八年間を尚且つ小千谷市議会議員を昭和三十八年から昭和六十二年までの二十四年間を鋭意務める
昭和五十五年五月片貝煙火工業を設立煙火三尺玉発祥の地片貝に名物真昼の三尺玉を昭和五十七年に三尺三寸玉を打ち上げに成功さらに昭和六十年に世界一,四尺玉打ち上げを成功させ今日の花火の里片貝,片貝まつりの名声を国内外に広める元を作られる
平成二年十二月三日永年に亘る自治功労者として勲四等瑞宝章を賜る平成五年五月二十日七十二歳で逝去 生涯の殆どを片貝まつりと小千谷市及び片貝町の振興に捧げられた業績を顕彰しその遺徳を後世に伝えるべく本田善治翁の七回忌にこの胸像を建立平成十一年五月二十二日
本田善治翁胸像建立実行委員会
黒崎敬湶書