戦後 教育 発祥之地
せんごきょういくはっしょうのち
沖縄道 石川I.C.から南西に2Km。うるま市立
太平洋戦争末期、沖縄は米軍による激しい攻撃を受けた。昭和20年(1945) 4月米軍は沖縄本島に上陸し、日本軍兵士の収容所と、それとは別に民間人の収容所を設置し避難民を収容していった。軍政府の指令により収容所内で戦後の学校は再開された。
沖縄本島中部の(旧)石川市の収容所では、昭和20年(1945) 5月に戦後初めての初等学校が開設された。米軍が上陸してから1ヵ月、南部ではまだ激しい戦闘が繰り広げられていた。沖縄戦の終結がが6月下旬であったことから考えるちかなり早い時期の教育再開であったが、これを「戦後教育」と呼んでいる。
石川で再開された学校は、当初は「石川学園」と呼ばれ、生徒数90名、教員20名,理髪師1名、その他3名であった。“理髪師”がいる理由は、当時ノミやシラミが多かったので衛生上学校で子供の頭を坊主刈りにさせていたためだという。石川学園は、校舎はもちろん机もなければ教科書もなく、青空教室で地面に文字を書いて教えた。また教師も資格を持った人ではなかった。
写真
碑文
戦後 教育発祥之地
本校は,戦後沖縄に於ける学校教育発祥の地である。
戦争の苦しみの中にあっても,なお教育を守りぬこうとする住民の熱意がもりあがり,昭和20年5月7日 沖縄戦まだたけなわの頃,開校の実現を見たのである。全島が戦場化し,各地から難を避けて当地に集まった住民子弟のうち児童790名を集め,校長山内繁茂氏外職員20名,給仕1名,小使い2名,理髪師1名の人員をもって開校したのであるが,校舎はもちろん机,腰掛け,教科書,学用品など一物もなく,砂の上に指で字を書かせるということから教育が始まったのである。石川市教育委員会