妹背牛町 水稲 発祥の地

すいとうはっしょうのち

 
撮影:
2024年11月(写真 まさ・なち さん)

函館本線 妹背牛もせうし駅から北に1.5km、町役場や体育館の北側に碑がある。

石川県小松から移住した小松秋盛は、各地から移住してきた入植者たちを指導する立場にあった。当時の入植者たちは、新たな土地での生活基盤を築くとともに、未経験の気候条件下での稲作という大きな課題に直面していた。

その指導の下では、数多くの試行錯誤が繰り返された。水温の確保、品種選定、育苗方法、土壌改良など、あらゆる側面から稲作の可能性が探られた。入植者たちは小松の指導のもと、失敗を恐れずに挑戦を続け、一つずつ課題を克服していった。

このような小松秋盛の献身的な指導と、入植者たちの粘り強い努力が結実し、ついには寒冷地である北海道での水稲栽培の礎が築かれた

妹背牛町は、町域面積に対する農耕地比率が約74%と高く、日本有数の農業の町である。特に米の生産が盛んで、農業産出額全体の約69%を米が占めている。主な品種は「ななつぼし」や「きらら397」などである。妹背牛町は石狩川が流れ、米作りに適した環境を有している。

北海道内の発祥の地碑として数多く水田発祥の地が数えられるが、《北海道「水田発祥の地」記念碑》という書籍が発行されるほどである。

写真

  • 妹背牛町水稲発祥の地
  • 妹背牛町水稲発祥の地 背面 碑文

碑文

妹背牛町

水稲発祥の地

農協組合長 伊藤猪五郎薯

碑文

妹背牛町は、明治二十六年に創設をみた七ケ農場により開拓の鍬が下ろされてから三年後の明治二十九年に小松秋盛氏が旧メム川沿いのこの地に五アールを造田し、新十津川より種子を求めて試作に成功したのが本町稲作の始まりで、明治四十年代から大正期にかけて急速に普及していった。入植当時は、原始林を伐採し木の幹は家の造作や薪炭に、枝は雑草と共に焼き払い畑の肥料とする豆類、粟、黍等の作付け中心であった。水稲の普及に当たっては、灌漑溝の完成や、客土、圃場整備による土地改良、幾多の苦難を乗り越えて稲作への意欲を持ち続けた先人の遺業の集大成として三三〇〇ヘクタールの美田が造成され、良品質、良食味の米どころ「もせうし」として発展するに至った。
本年開基百年を記念して妹背牛町二世紀に向けて更なる発展を祈念し、先人の偉業を永遠に讃えるため妹背牛町水稲発祥の地碑をここに建立する。

平成四年十月二十五日

妹背牛町長 村上節次
妹背牛町農業協同組合長 伊藤猪五郎

地図

地図

妹背牛町妹背牛 付近 [ストリートビュー]