本邦 帝王切開術 発祥之地

ていおうせっかいじゅつはっしょうのち

西武秩父線 正丸駅から 北に1.5km。飯能の山の中。正丸トンネルの少し南に, 国道299号に面して立派な石碑が建っており、何故こんな山の中に!? と驚く。

日本における帝王切開は, 嘉永5年(1852) に 秩父郡我野正丸(現在の埼玉県飯能市坂元)で行われたのが記録に残る最初の例である。詳しい事情は碑文でほぼ明らかだが, 陣痛から3日経っても生まれない難産で胎児は子宮内で死んでしまったため, 母胎を救うために手術分娩に踏み切ったとされる。手術後、母親は感染による発熱や腸閉塞で苦しんだが, 2カ月で全治したという。この後, 第2例目の帝王切開は30年後の明治15年(1882) に千葉県佐原で行われた。

当時 帝王切開の安全性は非常に低く, 19世紀のヨーロッパにおける母親の死亡率は75%にもおよんだ。出血と手術後の細菌感染が原因だった。そのような状況で, 伊古田純道・岡部均平の両医師が, このような山深い土地で麻酔すら無い中で, 果敢に手術を行い成功させたのは奇跡的な出来事であった。

ちなみに 嘉永5年といえば, 黒船来航の翌年のことである。

現在も本橋家には帝王切開が行われた部屋(納戸)が残されている。記念碑は飯能市の史跡に指定されている。

語源

「帝王切開」とは 産婦の子宮を切り開いて胎児を取り出す手術法のこと。 英語で "Caesarean Operation" と呼ばれるが, これを “シーザーの手術”と訳して, 「ローマ皇帝・ジュリアス・シーザーがこの手術に よって生れたので『帝王切開』と呼ぶ」とする説により, 日本では「帝王」の名前がついたが, 現在では 「切開によって生まれた」を意味するラテン語から来たとする説が有力。

写真

  • 帝王切開術発祥の地.
  • 帝王切開術発祥の地
  • 帝王切開術発祥の地 碑文レリーフ
  • 帝王切開術発祥の地 背面
  • 帝王切開術発祥の地 背面
  • 本邦帝王切開術発祥之地(2016)
  • 本邦帝王切開術発祥之地(2016)
  • 本邦帝王切開術発祥之地(2016)
  • 本邦帝王切開術発祥之地(2016)

碑文

 嗚呼実ニ西医ノ賜ナリ 自今若シ此ノ如キ難産ニ遇テ母子両全ヲ得ン事ヲ欲セハ 速ニ此ノ術ヲ施スニ如カス 只恐クハ世人ノ倍セサル事ヲ 冀クハ救世ニ志シアルモノ 西医ノ我ヲ誣サルヲ知テ疑ヲ存スル事勿ン 之ヲ記シテ以テ同志ニ貽ル

嘉永五年壬子四月廿七日

秩父大宮 伊古田純道識

伊古田純道識筆「子宮截開術実記」より

本邦帝王切開術発祥之地

一八五二年(嘉永五年)六月十二日(旧暦四月二十五日)ここ本橋家で 我が国最初の帝王切開術が行われた
難産に苦しむ本橋みと(一八二〇ー一九〇八)の生命を救うため秩父郡大宮郷(現秩父市)の伊古田純道と秩父郡我野郷南川村(現飯能市)の岡辺均平とが親族への説明と承諾の下に子宮切開術を実施して胎児を出し産婦も手術によく耐えて 満八十八歳の長寿を全うした
鎖国下オランダ産科書の翻訳を頼りに日本で初めての開腹術しかも致命率の高かった帝王切開術を麻酔なしに成し遂げたことはまさに奇跡的成功であった その後一八七九年(明治十二年)まで二十七年間本邦でこの手術が行われた記録はない
伊古田純道の『子宮截開術実記』の結びには西洋医術の成果に対する感動と確信が述べられている
術後百三十五年を経過した今日本橋家の地内に記念碑を建ててその偉業をたたえる

一九八七年六月十二日

「帝王切開術発祥の地」記念会
 日本医史学会
 日本産科婦人科学会
 埼玉県医師会

後援

  • 日本医師会
  • 日本医学会
  • 日本母性保護医協会

協賛

  • 飯能市教育委員会
  • 秩父市教育委員会
  • 埼玉県産婦人科医会
  • 飯能地区医師会
  • 秩父郡市医師会
  • 土地提供 本橋源次
  • 碑銘揮毫 日本医科大学名誉学長
    石川雅臣

地図

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飯能市坂元 付近 [ストリートビュー]