遠野 教育 発祥の地
とおのきょういくはっしょうのち
釜石線 遠野駅から 南に500m。市立図書館/博物館の向い側に 盛岡地方裁判所遠野支部がある。裁判所の前に「信成堂跡(江刺県庁舎)」という碑と並んで 「遠野教育発祥の地」と刻まれた石碑が建っている。
遠野の町は,文治5年(1189) に 源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした後に,阿曽沼広綱が遠野十二郷の地頭職に任じられ, その後450年にわたり遠野を支配して栄えた。阿曽沼氏滅亡により 寛永4年(1627) 南部直義氏が横田城に入城。遠野南部氏の城下町として240年間, 遠野郷の政治・経済・文化の中心地として繁栄した。明治維新後は 一時期 遠野に江刺県庁が置かれたが,その後盛岡県に統合され, 経済の構造変化や交通の発達に伴って その影響力は小さくなって行った。
教育面では, 藩政時代には“信成堂”という藩校があったが, 明治5年(1871) に学制令が発布されると, 翌年には遠野地方で最初の公立小学校として大工町瑞応院に「横田村第一番小学校」が開設された。当時 岩手県内で文部省が認可した小学校は 3校のみであった。生徒は6~12歳で, 授業料は貧富の差により 2銭から25銭の幅があった。
明治13年(1880) にこの発祥碑の近く(現在の遠野市民センターの位置)に校舎を新築成し,「公立横田小学校」となった。その後「遠野国民学校」を経て 1946(昭和21)年に「遠野小学校」と改称し, 遠野市東舘町の現在地(ここより東に600m)に移転した。
写真
碑文
遠野教育発祥の地
遠野教育小史
- 嘉永6年4月 1853
- 坂の下の地に藩校雑成堂を開く
- 明治6年5月 1873
- 大工町の瑞応院に横田村一番小学校を創設す
- 明治8年4月 1875
- 一番小学校を西横田小学校と改め新屋敷丁
工藤鼎氏宅を東横田小学校とする- 明治13年1月 1880
- 坂の下に東西横田小学校を統合し校舎を新築
公立横田小学校と称す- 昭和12年2月 1937
- 坂の下に遠野尋常高等小学校を新築落成す
- 昭和46年12月 1971
- 坂の下に遠野市民センターを設立
遠野小学校は現在の地に分離移転する平成元年8月吉日
昭和16年度国民学校
卒業生還暦祝賀事業