豊富町 発祥の碑
とよとみちょうはっしょうのひ
宗谷本線 兜沼駅近く、兜沼郵便局の隣の旧局舎(郷土資料館)敷地に立派な石碑が建つ。碑には碑文の他に、豊富町を象り兜沼地域を強調し「豊富町全域」とも刻まれている。
現在の豊富町の中心地は南部の役場がある附近と思われるが、入植当初は兜沼周辺から開墾がはじまったのだという。
兜沼という地名は、沼の形が兜のようだということで付けられた。また、食物(魚)を持つ川という意味のアイヌ語「イペコㇿペッ (ipe-kor-pet)」を意訳して豊富町と名づけられた。豊富町の北には稚内だけである。
酪農・林業・鉱業などが盛んだったが、現在は酪農と観光業となっている。
写真
碑文
豊富町発祥の碑
兜沼
発祥の地
豊富町全域碑文
豊富町は明治35年(1902年)岐阜県人、梅村庄次郞氏が兜沼(元、サルベットウ・沼の端)に入地してから100年を迎えた。
当時、この地は笹深く大木の茂る原始林におおわれ、昼なお暗く、往来の困難さは筆紙に尽くし難い状況であった。
熊の彷徨する中、先住者の音吉氏を案内役に調査探検を試みたところ、農工適地として広大であり、風致に富む一大湖水を見て、将来の楽園地になるものと確信し、一旦帰郷、翌、明治36年、岐阜団体長として12戸を伴い、再び兜沼に入り、開墾に従事した。
しかし、食糧、雑貨等の入手に困難を極め、内地からの移住者にとっては筆舌に尽くし難い生活を強いられた為年半ばにして人達がこの地を去り、梅村団長独り当初の望みを捨てず音吉氏と力を合わせ、開拓の礎となる。
その後、幾多の曲折を経ながら、多く先人達のたゆまぬ努力により、今日の酪農の里、最北の温泉郷、そして自然豊かな豊富町を築いてきたのである。入植から100年、先人の功績を讃えるとともに、豊富町の歴史を後世に残すべく「発祥の地記念碑」を町民各位の支援により、ここに建立する。
平成14年10月吉日