隅田党 発祥の地

すだとうはっしょうのち

和歌山線 隅田《すだ》駅から北西に1.5km、京奈和自動車道 E24 橋本東I.C.から南西に600m、隅田《すだ》八幡神社(橋本市隅田町垂井622)境内、東の隅に石碑がある。

平成29年(2017)10月、隅田八幡神社の正遷宮を機に、隅田党一族の会によって建立されたもので、御影石製、高さは台座を含め約1.8メートルである。表面には「隅田党発祥の地」と刻まれ、裏面には隅田党の沿革が記されている。

隅田党は、紀伊国伊都郡の隅田荘(現在の橋本市隅田町一帯)を基盤とした中世の武士団である。その成立には隅田八幡宮と隅田荘の支配が深く関わっている。平安時代末期、長忠延が隅田八幡宮の俗別当職と隅田荘の公文職を担い、その地位が子孫に継承された。やがて隅田氏を中心として荘内の一族・有力者が結びつき、隅田八幡宮を氏神とする武士団として隅田党が形成された。

鎌倉時代には隅田氏の惣領家が北条氏に仕え、六波羅探題のもとで活動した。元弘3年(1333)、鎌倉幕府滅亡の際には、六波羅探題北条仲時らとともに京都から鎌倉へ向かったが、近江国番場で追い詰められ、隅田一族11人も含む多数が自害した。この出来事は『太平記』に記されている。惣領家の滅亡後も葛原氏や上田氏などを中心に一族の結合は続き、室町時代には紀伊守護畠山氏の被官として活動した。

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碑文

隅田党発祥の地

地図

地図

橋本市隅田町垂井 付近 [ストリートビュー]