平塚という地名の起こり

ひらつかというちめいのおこり

東海道本線 平塚駅から北西に1.5km、日蓮宗要法寺の西側にある平塚の塚緑地(平塚市平塚4丁目10-10)内に石標が建つ。

神奈川県平塚市の地名の由来は、平安時代にこの地で亡くなった真砂子まさこの墓の「後の形状」に由来する。

天安元年(857) にこの地で急死した彼女を悼んで築かれた墓は、当初は土を高く盛った通常の塚であった。しかし、その後の長い年月を経て雨風により封土が崩れ、上部が平らな状態に変化した。この風化した「平らな塚」の姿を見た里人たちが、一帯を、少なくとも江戸時代頃には「平塚」と呼ぶようになったとされる。

公的な歴史書において「平塚」の地名が初めて登場するのは、鎌倉時代の『吾妻鏡』である。建久3年(1192) 8月9日、源頼朝が妻である北条政子の安産祈祷のため、相模国の社寺に神馬などを奉納した際の記録に「平塚」の地名が記されている。これが地名の存在を証明する最古の確実な記録である。

真砂子の出自については、歴史的確証のない異なる伝承が個別に存在している。一方は、江戸時代の地誌『新編相模国風土記稿』などに記されている、桓武天皇の系譜を引く高見王たかみおうの娘「平真砂子」とする説である。もう一方は、地域の民話として語り継がれている、大磯の富豪である真壁豆腐長者まかべのとうふちょうじゃの娘とする説である。これらはそれぞれ独立した別個の伝承である。そして高見王も真壁豆腐長者も、真砂子も、実在の人物かは不明であり、伝承である。

写真


碑文

平塚の碑

平塚の塚由来

江戸時代の天保十一年に幕府によって編さんされた『新編相模国風土記稿しんぺんさがみのくにふどきこう』の中に里人さとびとの言い伝えとして、「昔、桓武かんむ天皇の三代孫、高見王たかみおうの娘政子が、東国へ向かう旅をした折、天安元年(八五七)二月にこの地で逝去した。ひつぎはここに埋葬され、墓として塚が築かれた。その塚の上が平らになったので里人はそれを『ひらつか』と呼んできた。」という一節があり、これが平塚という地名の起こりとなりました。この事から平塚の歴史の古さが伝わります。

平塚市

平塚碑

相模国大住郡平塚村有古塚。高可数尺。其巓平。因名村曰平塚。相伝天安元年中。桓武帝三世孫高見王女平氏政子。東遊至此。病卒。因葬焉。厥後封土為雨雪所※、禿而平。故名云。

寿永元暦之間。源二位頼朝。始建幕府於鎌倉。其経由茲土也。嘗種松於塚之四隅。今其松枯。而存者唯一株。其幹蓓、擁腫。可三四囲。下枝盤辟如盖。離奇可愛。

寛政戊午。領主岡部豊後守長達。按部至村。向塚而歎曰。高見王。名王也。政子。王女也。葬於茲。垂千載。而堙没不彰。村名之所由。亦幾於不伝。是不可不表章之。乃伐石。属衡記其由。

衡按。吾妻鏡。建久三年八月。右大将頼朝。因妻政子将分娩。奉幣於相模国諸社寺。其一曰平塚範隆寺。其一曰平塚黒部宮。然則。平塚之名。見於書伝者。于今六百有余年。而其所以名之。之由。固在天安之歳。則距今将千載。其遠且久。亦足尚矣。

況其巓之平。前既有征。而松之種。又表大将之敬。今長達能崇前代之遺蹟。而勤不朽之謀。可謂不忘其本者矣。因叙述其概。銘曰。

帝孫之女 帰骨於茲
年遠代湮 名在塚隳
鬱々孤松 大将所治
刻石表道 千載不緇

寛政十年戊午冬十一月

大学頭兼祭酒従五位下挙林衡撰

現代語訳

相模国大住郡平塚村に古くから伝わる塚(古墳)がある。高さは数尺(約1メートル強)ほどで、その頂上が平らになっている。これが、この村を「平塚」と名付けた由来である。
言い伝えによると、天安元年(857) の年中、桓武天皇の三世の孫である高見王の娘、平政子(たいらのまさこ)が東国へ旅した際、この地に至って病気になり亡くなった。そのため、ここに彼女を葬った。その後、墓の盛土が長年の雨や雪によって削られ、草木がなくなって平らになった。それゆえに(平らな塚=平塚と)名付けられたという。

寿永・元暦のころ、従二位・源頼朝が鎌倉に初めて幕府を開いた。頼朝がこの土地を経由した際、かつて塚の四隅に松を植えた。今ではその松も枯れてしまい、残っているのはわずかに一株だけである。その幹はこんもりと太く膨らみ、でこぼこと腫れ上がっており、幹の太さは三、四抱えほどもある。下の枝はねじれ曲がって傘のように広がり、その一風変わった珍しい姿は愛すべきものである。

寛政10年(1798) 、この地を治める領主である岡部豊後守長達が、領内を巡視してこの村にやってきた。長達は塚に向かって嘆息してこう言った。
「高見王は名高き皇族であり、政子はその王女である。ここに葬られてから1000年近くが経とうとしており、その存在は埋もれて明らかになっていない。村の名前の由来も、またほとんど伝わらなくなろうとしている。これは表彰して世に示さねばならない」
そこで石を切り出し、私にその理由を記録するよう依頼した。

私が調べるに、『吾妻鏡』の建久3年(1192) 8月の条に、右大将・頼朝が妻の政子の出産にあたり、相模国の諸社寺に幣帛を奉納したとある。その中の一つに「平塚範隆寺」があり、もう一つに「平塚黒部宮」とある。
そうであるならば、「平塚」の名が書物や記録に現れてから、今にいたるまで600年余りが経っている。そして、そのように名付けられた理由の根源は、実にもともと天安の年(857年) にある。すなわち、今から遡ること将に1000年であり、その歴史の遥か遠く古いことは、実に尊ぶに値するものである。

ましてや、その塚の頂が平らであることは、前述の通りすでに地名の証拠(象徴)となっており、松が植えられたことは、また大将(頼朝)の敬意を表している。今、領主の長達が、よく前代の遺跡を崇(あが)め、後世に永く残すための計画に尽力されたことは、物事の根本を忘れない立派な振る舞いであると言える。よって、そのあらましを叙述する。

銘に言う。

皇孫の娘が、この地に骨を埋めた。
歳月は遥かに遠く時代は埋もれたが、塚が崩れてもその名は残る。
青々と茂る一本の孤松は、大将(頼朝)が手植えしたものである。
石に刻んで道行く人に示し、千年ののちまでも(この記憶が)汚されず伝わることを。

地図

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平塚市平塚4丁目 付近 [ストリートビュー]