ヤクルト 事業 創業の地
やくるとじぎょうそうぎょうのち
福岡市地下鉄空港線の唐人町駅から北西に200m。ホークスとうじん通りに面して新しく造成したばかりと思われる墓地(善龍寺墓地)がある。その北側の数台の自動販売機が並んだ一角に「ヤクルト事業創業の地」と書かれた黒い石碑が建っている。碑の上部には見慣れたヤクルトの小さな瓶の形の黒いモニュメントが載っている。
【開発と創業】
ヤクルトの開発者・実質的な創業者は
「予防医学」: 疫病の原因は細菌にある。病気になってからでは治すのは困難なので、病気にならないための予防が大切だ。
「健腸長寿」 : 人が栄養を吸収するのも病原菌が暴れるのも腸である。腸が健康になってこそ、人は健康になれる。
代田氏は人の腸に住む乳酸菌に悪い菌を退治するものがあることに注目し、それを強化培養して飲むことにより健康を守ることができるはずだと考えた。1930(昭和5)年に 所謂“ヤクルト菌”(L.カゼイ・シロタ株)を発見。腸で乳酸を作り、有害菌の腸内増殖を防いだり、便性を改善したりする働きがあることを確認した。
昭和10年(1935) になって 福岡市のこの地に“代田保護菌研究所”を創業し、乳酸菌飲料の製造・販売を開始した。
【命名】
昭和13年(1938) に「ヤクルト」の商標を登録。これはエスペラント語で“ヨーグルト”を意味する“ヤフルト”をもじった造語。ヤクルトを世界中に広めたいという、代田氏の強い期待からエスペラント語を選んだと言われる。
【製造と販売】
代田保護菌研究所で作られ原液はそのまま各地の販売店に配られ、そこで瓶詰めされて各家庭に届けられた。宅配で売られたのは、ヤクルトの効果を顧客に説明する必要があったためで、最初は販売の中心は牛乳販売店だったが、昭和15年(1940) からヤクルト専門の“代田保護菌普及会”が全国各地に次々と誕生した。多い時は全国で500社を超える販売店があったという。
【価格と容器】
代田氏は多くの人の健康に寄与すべく“ハガキ1枚、タバコ1本程度買えるヤクルト”を経営の標語とした。このため、最初は販売店毎にまちまちだった値段が、5円くらい?で売られていたという。また価格を抑えることもあって、小型の容器を使用している。
現在ヤクルトは、小さなプラスチック容器が使用されているが、かつては牛乳ビンを小型にしたようなガラス瓶入りで、紙の蓋がされていた。しかしガラスは重く、割れやすく、しかも回収に手間がかかる。
発売以来30年後の昭和43年(1968)、持ちやすい形で軽い 現在のポリスチレン製容器に変更された。
【ヤクルトレディー】
ヤクルトの販売の最大の特徴は、独特の婦人販売員システムである。多くを宅配によっているため、どんな天候でも、どんな場所でも確実に届けることが大切である。そのために、辛抱強く真面目に働く人として家庭の主婦に頼った。主婦が働くことが珍しかった時代だったので、当時は極めて斬新な労働形態であった。
このシステムは地方の販売店から自然発生的にできたものだった。それが次第に広がりをみせたため、昭和38年(1963) に、全社レベルで導入することとなり、自転車や手押し車でヤクルトを運ぶヤクルトレディの姿が、全国で見かける光景になった。これは現在も続いている独自のシステムである。地域によっては電動ミニカーなども多く採用されている。
【ヤクルト本社】
当初ヤクルトは各地の“普及会”のメンバー達がそれぞれの資金によってスタートした販売会社などの集合体の形で、中枢としての本社が存在していなかった。しかし各個バラバラの販売体制では不都合が多く、調整機能の必要性から各事業所が資金を出し合って、昭和30年(1955) に東京に“ヤクルト本社”が設立され、ようやく全国のグループ会社が統括されることになった。
【販売量】
ヤクルトの販売量は昭和47年(1972) に国内で1日1600万本のピークに達した。その後は競合製品の増加や顧客の嗜好の変化などにより徐々に低下し、オリジナルのヤクルトで300万本、“ヤクルト400”などヤクルトの名を冠するファミリー商品全体では900万本にもなる(2005年ごろの販売量)。
早くから進出している海外の販売量は、26ヶ国で1日1500万本を販売。国内外を合せて1日当たりの2400万本になる。
写真
碑文
ヤクルト事業創業の地
昭和十年(一九三五年)
健腸長寿
福岡ヤクルト販売株式会社
創立五十周年記念碑二〇〇九年六月一日