天叢雲剣 発祥地

あめのむらくものつるぎはっしょうち

画像求
撮影:
どなたか見てきてください!

中国横断自動車道 E54 雲南加茂I.C.(6-1)から西へ2.8km、木次線 加茂中駅から約5Km、木次駅から約6Km。御代神社旧社地趾とされる場所に、小振りな石標が建つ。

古事記』および『日本書紀』)によると、高天原を追放された素戔嗚尊すさのおのみことが現在の島根県出雲市や雲南市周辺にあたる簸の川(斐伊川)の上流に降り立った。その地で素戔嗚尊は、人々を苦しめていた巨大な怪物である八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した。

素戔嗚尊が十拳剣とつかのつるぎを用いて八岐大蛇の尾を切り刻んだ際、その尾の中から一振りの見事な太刀が出現した。これが天叢雲剣(後の草薙剣)である。大蛇の頭上には常に霊験あらたかな雲が掛かっていたことから、この名が付けられたとされる。素戔嗚尊はこの剣を神聖なものとし、天照大御神あまてらすおおみかみへと献上した。

この神話に基づき、島根県内には天叢雲剣の発祥に深く関連する地が複数存在する。大蛇が潜んでいたとされる場所や、素戔嗚尊が大蛇を退治したと伝わる「八本杉」の跡地などが雲南市周辺に点在しており、地域の伝承として定着している。

その後、天叢雲剣は天孫降臨に伴って地上へと再びもたらされ、三種の神器の一つとして皇室に伝わることとなった。景行天皇40年(110) に日本武尊やまとたけるのみことが東征に向かう際、伊勢神宮の倭姫命やまとひめのみことからこの剣を授かり、後に駿河国で燃え盛る草を切り払って難を逃れた逸話から「草薙剣」とも呼ばれるようになった。東征の帰路において剣は尾張国の熱田神宮(愛知県名古屋市)に留められ、現在も同宮の御神体として祀られている。また、崇神天皇58年(前35) には、天叢雲剣の形代(模造品)が作られ、こちらは宮中に残された後、宮中三殿の賢所に安置されている。

この場所には、大蛇の尾を留めたという伝承に由来する「尾留おとめ大明神」という神社が鎮座していた。明治4年(1871) に「御代みしろ神社」と改称された後、大正元年(1912) に近隣の日吉神社社地へ移転・合祀され、現在の御代神社となった。社殿が移転したことにより、元の境内が「尾留大明神旧社地」となったため、神話ゆかりの記念碑を建てて歴史的な場所であることを示す必要が生じた。社殿そのものは約500m南東の現在の御代神社に移っているが、この旧社地跡は八岐大蛇伝説の舞台を巡る重要な神蹟地として、雲南市や地域の観光協会によって管理・案内されている。

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碑文

八岐大蛇ゆかりの伝説

尾留大明神天叢雲剣発祥地

尾留おとめ大明神だいみょうじん旧社地(天叢雲剣あめのむらくものつるぎの発祥地)

八塩折やしおりさけに酔いつぶれた大蛇を退治した須佐之男命すさのおのみことは、この御立藪おたてやぶで大蛇の尾を開いて宝剣を得られたが、その宝剣の上に怪しき雲があったので、「天叢雲剣あめのむらくものつるぎ」と名づけて天照大御神あまてらすおおみかみに献上になり、後、三種の神器の一つとして今も名古屋の熱田神宮に祭られている。この御立藪おたてやぶ(現在は畑地)は須佐之男命すさのおのみことと稲田姫を尾留おとめ大明神だいみょうじんと称し広く崇拝されてきたが、斐伊川の氾濫により、延享元年(一七四四)約二〇〇メートル南方のここ大津の丘陵中腹に移転。明治四年に御代みじろ神社と改称され、更に大正元年日吉神社地に移転合祀して今の御代みじろ神社(南方五〇〇メートル)となっている。

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地図

雲南市加茂町三代 付近 [ストリートビュー]