穴山氏 発祥の地
あなやましはっしょうのち
中央本線 穴山駅構内、プラットホーム上に「穴山氏発祥の地」の看板が建っている。
穴山氏は 元々甲斐武田氏の一族で, 穴山に所領を持っていたため 穴山氏を名乗ったとされる。戦国時代末期まで河内地方(甲州南部, 現在の西八代郡・南巨摩郡) を領有し, 武田宗家・郡内の小山田氏と並んで甲斐国を三分する勢力を持った。武田信玄の時代, 穴山梅雪(信君)は 信玄を支えた主要家臣(武田二十四将)のうちの一人であった。
武田家の滅亡に際して, 穴山梅雪は 織田徳川連合軍に通じ, 武田勝頼の死後 武田氏を受け継ぐ約束になっていた。しかし 徳川家康とともに泉州堺に滞在している時に本能寺の変が起こり, 家康は無事に脱出することができたが, 梅雪は脱出が遅れ木津川付近で最期を迎えた。
穴山駅から北に2kmの地点に「穴山氏館跡」がある。初代義武から五代信綱ごろまでの居館であったと言われ, 六代信友、七代梅雪の頃に南部(現在の身延町)の下山城に移った。こちらも「穴山氏館」と呼ばれる。
写真
碑文
中世の豪族
穴山氏発祥の地詰城 能見城 下車2分
丸山氏の墓 市文化財 満福寺境内 約2.5km
居館跡地 約2km 氏神跡地 1.8km(駅前広場略図紹介あり)
平成5年度 穴山町ふる里創生事業
ふる里創生については片面だけに記述がある