「葵の紋」 発祥の由来

あおいのもんはっしょうのゆらい

東海道本線 西小坂井にしこざかい駅から西に約2Km。東海道新幹線を越えたところに“太町牧場”“花ヶ池牧場”があり、その向かい側に伊奈城趾公園がある。ここに「葵の紋発祥の由来」という石碑と、「葵の紋発祥ゆかりの地」という説明パネルがある。

本多家の「立葵の紋」と徳川家の「三つ葉葵の紋」を示している。歴代将軍の紋所も、水戸黄門が「この紋所が目に入らぬか!」と突き出した印籠の紋所も、当然下の「三つ葉葵」である。

葵の紋の発祥ゆかりの地として“花ケ池”の地名も出てくるが、この地から200mほど北東、新幹線の反対側に「花ヶ池公園」がある。

※ 2010年2月から、愛知県宝飯ほい郡小坂井町は合併により豊川市となった。

写真

  • 葵の紋発祥の由来
  • 葵の紋発祥ゆかりの地説明
  • 花ケ池と葵の紋
  • 花ケ池公園

碑文

「葵の紋」発祥の由来

徳川家康の祖父、松平清康は享禄2年 (1529)吉田城を攻めた。 時の伊奈城主本多正忠は、松平軍に従って戦い吉田城を落とし、清康を伊奈城 に迎え祝宴を開いた。

此時御肴をすゝむとて、 池なる水葵の葉
に盛りて参らせしに、 次郎三郎(清康)
殿御覧ありて、 立葵は正忠の家の紋なり、
此度の戦に、 正忠最初に御方に参て、
勝軍しつ、 吉例也、 賜らんと仰ありて、
これより御家紋とはなされたり。
「藩翰譜」 新井白石著より

正忠献盤殺籍用葵三葉岡崎公租而悦曰
吾凱旋得此自今当以此為徴号
「日本外史」頼山陽著より

「葵の紋」発祥ゆかりの地
伊奈本多家の「立葵」と徳川家の「三つ葉葵」

伊奈本多家の家紋は「立葵の紋」で、これは「フタバアオイ=二葉葵」という植物を紋章にしたものである。

この「フタバアオイ」は、京都の賀茂神社の神紋とされていた。本多家の先祖の中務光秀が賀茂神社の社職であったことから、「立葵の紋」を本多家の家紋としたといわれている。

享禄2年(1529)岡崎城主・松平清康(徳川家康の祖父)は、吉田城(豊橋市)を攻めた。当時の伊奈城主の本多正忠は、清康軍に参加し、先陣をきって東門を破り、城を攻め落とした。ついで清康は軍を田原城へ向かわせたが、城主の戸田氏が降伏したので、正忠は直ちに清康を招き伊奈城に凱旋し、祝宴を開いた。

この祝宴に、正忠は城下の花ヶ池にあった水葵の葉を敷いて酒肴をだしたところ、清康は大そう喜び、

立葵は正忠の家の門なり、此度の戦に、正忠最初に御方に参て、勝軍しつ、吉例也、賜らんと仰ありて、これより御家紋とはなされたり。
――「藩翰譜」(新井白石編)――

この記述を裏付けるように、岡崎市の随念寺にのこされている清康の肖像画(岡崎市指定文化財)には、「立葵の紋」が描かれている。

このように、本多家から松平家の家紋となった「立葵の紋」が、徳川家康の代に「三つ葉葵の紋」となったと伝えられている。これが、小坂井町が「葵の紋」発祥ゆかりの地といわれる由縁である。

平成9年3月30日   小坂井町教育委員会
伊奈史跡保存会

地図

地図

豊川市小坂井町 伊奈城址公園 付近 [ストリートビュー]