国内で 初めての 大規模で かつ本格的な 発掘調査
こくないではじめてのだいきぼでかつほんかくてきなはっくつちょうさ
市営地下鉄 ブルーライン 三ツ沢下町駅から南西に750m、神奈川県立翠嵐高校(よこはまし神奈川区三ツ沢南町1-1)西隅の小さな門の脇に、ステンレス看板が設置されている。軽井沢古墳の北800mほどの場所で、貝塚は神奈川区沢渡・三ツ沢東町・三ツ沢南町にかけての東西に細長い台地に分布している。
三ツ沢貝塚(横浜市神奈川区)は、明治38年(1905) にスコットランド出身の医師であり考古学者でもあるニール・ゴードン・マンロー(N. G. Munro)によって、日本で初めてとなる大規模かつ本格的な発掘調査が行われたことで知られる縄文時代後期の遺跡である。
当時、日本の考古学における発掘調査は、偶然の発見に伴う小規模な掘削や、出土遺物の収集を目的とした部分的な調査が主流であった。これに対し、マンローによる三ツ沢貝塚の調査は、明確な計画性と学術的アプローチに基づいて実施された点において画期的なものであった。
発掘は広範囲にわたって系統的に進められ、層序を意識した掘削が行われた。この調査によって、大規模な貝層の構造が明らかになったほか、竪穴住居跡の一部や、良好な状態で埋葬された5体の縄文人骨が検出された。さらに、縄文時代後期の堀之内式土器を中心とする豊富な遺物も出土し、単なる発掘品の集積にとどまらない、集落の全貌や当時の生活環境を解明するための貴重なデータが提示された。
この調査結果とその出土資料は、当時考古学界で盛んに論じられていた「日本石器時代人種論争」つまり縄文土器を残した人々がアイヌの先祖であるか、コロポックルか、あるいは別の先住民族であるかという議論に大きな影響を与えた。実証的な発掘データと人骨の分析に基づく知見は、文献論争に偏りがちであった当時の論争に客観的な証拠をもたらし、議論を新たな局面へと導く一石となった。
三ツ沢貝塚におけるマンローの調査は、発掘方法論の確立、構造物や人骨を含む多角的な遺構の検出、そして学術論争への客観的資料の提供という成果を残した。近代的な調査手法を導入して実施されたこの発掘は、日本における考古学が単なる古物収集から学術的な遺跡解明へと脱皮する重要な契機となった。
写真
碑文
横浜市地域史跡
三ツ沢貝塚
登録 昭和六十三年十一月一日
所在地 横浜市神奈川区三ツ沢南町一の一三ツ沢貝塚は、このあたり一帯にまたがって存在していた貝塚を伴う縄文時代後期の集落跡です。その広がりは、東西二〇〇m、南北一〇〇mに達し、横浜市内の貝塚としては、屈指の規模のものです。
この貝塚は、貝層が斜面部で厚く、約一mほど堆積しており、ハマグリ、カガミガイ、シオフキ、アカニシなどからなる純鹹 貝塚で、縄文時代後期の堀之内式土器を主体に、その前後の型式の土器も出土しています。
明治三十八年、国内で初めての大規模で、かつ本格的な発掘調査がN・G・マンローによって行われ、竪穴住居跡の一部や五体の人骨が発見されたことは、考古学史上有名です。この資料は、当時華々しく展開されていた日本石器時代の人種をめぐる論争に一石を投じました。※
純鹹 貝塚とは海水に生息する貝を主体とする貝塚平成二十四年二月
横浜市教育委員会
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