葉隠 発祥の地
はがくれはっしょうのち
長崎本線 佐賀駅から 北に8km。長崎自動車道の金立サービスエリアの西。金立公園から金刀比羅神社に通じる狭い道沿いに「葉隠発祥の地」と刻まれた質素な石碑が建っている。 碑の横の緩い石段を上ると「常朝先生垂訓碑」があり、その脇に「葉隠発祥の地」の説明板がある。
「葉隠」 とは、江戸時代中期(1716年ごろ)に出された肥前(佐賀)鍋島藩藩士・山本常朝の、武士としての心得について口述した内容を、同じ鍋島藩士である田代陣基が記録したもので、足かけ7年の歳月をかけて11巻からなる『葉隠聞書』をまとめた。その内容は、当時主流であった山鹿素行などが唱える武士道の考え 方を「上方風のつけあがりたる武士道」と批判していて、当時の武士道の考え方とはかけ離れたものであったが、徐々に重要視されて藩士に対する教育の柱とさ れるようになり、“鍋島論語”とも呼ばれるほど浸透した。
『武士道とは死ぬことと見つけたり』という言葉が非常に有名だが、この言葉だけが独り歩きして解釈されて、武士道の神髄であるかのように受け止められ、近年では 太平洋戦争中の特攻隊や自決などの際にこの言葉が使われた。
三島由紀夫はこの“葉隠”を“わたしのただ一冊の本”と呼んで心酔し『葉隠入門』を著しており、ついには自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自殺している。
しかしこの書の実体は 武士の生活訓的な内容であり、これを名著であるように評価するのは誤りだとする意見も多い。佐賀藩出身の大隈重信は“実にくだらない書物”と切り捨てている。
写真
碑文
佐賀県史跡
葉隠発祥の地
佐賀市教育委員会
佐賀市史跡
葉隠発祥の地昭和42年2月11日指定
現在、この地には、葉隠の口述者山本常朝が隠棲した朝陽軒(のち宗寿庵)等の遺構は残っていない。
元禄13年(1700)山本常朝は、佐賀藩2代藩主鍋島光茂死去のため落髪出家してこの朝陽軒に隠棲した。10年を経て同藩士田代陣基(つらもと)が自己修養のため、ここを訪れ教えを請い、のちの大小隈と合せて7年にわたり、その教訓を中心に筆録したのが「葉隠」11巻である。
常朝先生垂訓碑は、昭和10年(1935)10月に建立されたもので、この碑銘は竹富時敏の書であり、常朝をたたえた碑文は西村謙三の撰、中島雅明の書である。また碑石の背面には、有名な
「憂世から何里あろうか山桜」
「白雲や只今花に尋ね合ひ」の句が誌されている。
佐賀市教育委員会