花巻 城下町 発祥の地
はなまきじょうかまちはっしょうのち
東北本線 釜石線
花北地区は花巻城の北部。花巻が開町したと云われる文禄年間に四日町が最初に開かれ、その後
なお、碑はコミセン前という理想の場所に設置されていますが、裏通りであるため、普段から通りを利用しない者には奥州街道めぐりのみなさんにすらなかなか気づかれないようだ。
なお、石碑には案内板が格納されており、手で引き出して見るようになっている。可動部のお手入れをしなければならないのが難だが、案内板の汚れ・日焼けが少ないようにも思う。また、格納されている案内のひとつに地図があり、北が左向きに描かれていて少し混乱する。やはり地図は北を上に描くか、あるいは現在地から向いている方角を上にしておいてもらいたい。西向きに立って見るので、北は右側になるのが望ましい。
写真
碑文
花巻城下町発祥の地
四日町・一日市町花巻の関町は文禄(一五九二〜一五九五)頃に
四日町 、慶長年間(一五九六〜一六一四)頃に八日町 (後の川口町(現在の上町))、続いて一日市町 の順で開かれ、合わせて花巻三町と呼ばれました。四日町・一日市町は花巻城の北西方面にあたり、毎月四と一のつく日に開かれた定期市が町名の由来となっています。表町は道幅が五間(約九メートル)で
奥州街道 であり、特に一日市町には東西の御仮屋 (藩主の仮宿泊場所・本陣)制札場 (市・町での禁止事項などを掲げた所・高札場)といった重要な施設がおかれていました。またその西側にならんで道幅が三間半(約六・三メートル)の裏町があって四日町には稲荷社 と広隆寺 、一日市町には妙円 寺などの神社や寺が多く建立されていました。安永九年(一七八〇)当時の家数は四日町百四十軒・一日市町百十八軒とあります。町場の出入口付近には
木戸 (都市の治安維持のためにおかれた門)がつくられ、町境もかぎ型に曲げられるなど巧みに非常の際の工夫がされていました。