伊那節 発祥之地
いなぶしはっしょうのち
飯田線 伊那市駅から 東に800m。伊那公園の中。伊那東大社の参道鳥居のすぐ近くに 大きな丸い石碑と, その横に銅板の副碑が建っている。
伊那地方では 段丘に用水が引かれて水田の開発が進み, 盛んで稲作が行われ 生産量も多かった。
一方、伊那と中央アルプス(木曽山脈)でさえぎられている西隣りの木曽地方は, 中山道が通過しているため 各宿場が栄えたが, 米の生育に適した土地が少なく米の生産が少なかったため米不足に悩まされた。このため古くから伊那谷から中央アルプスを越えて木曽地方に米が運ばれていた。
元禄年代に 中央アルプスの権兵衛峠を越える権兵衛街道が開削されてからは, 人馬の往来が盛んになり, 米や特産品の交易が盛んになった。「木曽節」はこの権兵衛峠を往来する馬子たちが歌った“馬子唄”だと言われる。「木曾へ 木曾へと積み出す米は 伊那や高遠の余り米」という歌詞は この辺の事情をよく表している。
余談だが, 長い間 この権兵衛峠には車の通れない林道があるだけだったが, 昭和57年(1982) に国道361号に認定され かろうじて一車線の道路が整備された。しかし 冬季は通行止めになる不便な山道だったため, 峠をくぐるトンネルが計画され, 平成18年(2006) に権兵衛トンネル(4,467m) が開通し, 通称“伊那木曽連絡道路”として開通した。
伊那公園に建つ発祥碑は昭和35年(1960) に建てられた 比較的古いもので, 傍らには 伊那市が建てたと思われる“まほら伊那”という案内看板があり, ここにも伊那節についての解説が書かれている。
写真
碑文
伊那節發祥之地
木曽へ木曽へと つけだす米は
伊那や高遠の あまりごめ
東仙丈 西駒ヶ岳 間を流るる 天竜川久保田万太郎
伊那節の由来
遠い我等の祖先の生活から生まれた「おんたけやま」という山国民 謡がある。伊那の人々はこの歌に郷土の生活感情をうたい込んで近世 まで伝承されて来た
元禄九年権兵衛峠の開鑿により 伊那から木曽への交通が繁くなり 高遠領 箕輪領の米が多量に移出された この往来から雨谷の環境と 人情とを結ぶ伊那の民謡として独特な成長を遂げ 宴席には必ずこれ を歌う風習になった
明治十二年伊那に上伊那郡役所が設置され町は急速な発展を見た この新しい郷土の象徴として「おんたけやま」も大きく成長して伊那 の代表的民謡となった
明治四十一年長野市に開かれた一府十県共進会の際出演して好評を 博しこれから伊那節と呼ばれ 他府県にも広まった これを契機に伊 那節保存会や普及会が起こり 又唄や踊りの定型化 新歌詞の発生等 があって益々盛んになり 昭和に入り レコードやラジオの発達に伴 ない 新しいくふうが加えられて 幾度かの全国民謡大会に出演して いよいよ天下の伊那節となった昭和三十五年四月 建之
伊那市
伊那商工会議所追補
詞碑が建立されて幾年もの歳月が経過しました。
それと共に碑も風化し,改修を余儀なくされました。
同時に「伊那節の由来」も風化されており,貴重な資料を
後世に残す為ここに銅板に刻むこととなりました。平成十七年三月吉日
改修業者 ㈲小林石材 小林健次
銅刻 ㈱中央鈑金
まほら伊那
伊那節
[Ina-bushi fork song]伊那節は古くは「おんたけやま」と呼ばれた馬子唄で, 江戸時代に権兵衛峠を行き来した馬子たちが好んで口ずさみ, 伊那谷の各地に広められました。権兵衛峠の往来が華やかりしころから, 宴席や祝の席では必ずこの唄が歌われ, それが伊那の風習になっていったのです。
明治41年に長野市で開かれた1府10県共進会という博覧会に「おんたけやま」として出演, 木曽から出演した「なかのりさん」とまぎらわしいとのことで, この時から「おんたけやま」は伊那節, 「なかのりさん」は木曽節とよばれるようになったと言われます。しかし当時は西箕輪, 春近, 冨県, 伊那町など各地(現在はすべて伊那市内)で「正調」を主張していたため 明治41年からすべての「おんたけやま」が伊那節に改称したわけではなく, 徐々に伊那節と呼ばれていったと思われます。
その後, 幾度か全国民謡大会にも出場して伊那節は長野県を代表する民謡となりました。現在市内では「伊那まつり」で踊られる伊那節, 元唄に一番近いと言われる「与地の伊那節(西箕輪与地区)」, 「福地の伊那節(冨県福地地区)」など踊りや節回しなど違った伊那節を伝えています。
この「伊那節発祥の碑」は伊那市が伊那節の発祥の地であることを記念して, 昭和35年4月に建てられました。