稲作 発祥伝説

いなさくはっしょうでんせつ

受水(ウキンジュ)走水(ハインジュ)の入口近くにある体験施設(南城(なんじょう)玉城(たまぐすく)百名(ひゃくな))建屋の壁に説明が書かれた看板が掲げられている。

中国から米の種を持ち帰ることが許されず、かわりに鶴が持って行くのはよろしいという。まるでかぐや姫のような難題に打ち克ち鶴が沖縄まで米を持って帰ってきたというストーリー。鶴は途中で落ちて死んでしまうが、そこから出た稲の芽を見つけて当地に植えた最初の水田が当地だという。

写真

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碑文

稲作発祥伝説

大昔の世、中国に大変おいしい御米と呼ばれる食料があり、そこに渡った阿摩美津(琉球開びゃくの祖、阿摩美姑の子孫であるとされている)が琉球にその種子を持ち帰りたいと守(ニライカナイの神)に願い出たが、稲の種子は国外持ち出し禁止であることもあって許可されなかった。
その後、北山王の使者の伊波按司守が中国に渡り阿摩美津と同じように米が欲しくなり守に稲の種子を持ち帰りたいと願い出た。守はあまりにも熱心に伊波按司が請うので鶴が運ぶことを条件に許可し、自分で大事に育てていた鶴を与え「ここの稲が熟する頃、鶴を放し鶴に稲の種子をくわえて運ぶよう言いつけなさい」と言った。
琉球に帰り鶴を大事に育て稲の穂が実る頃、守に教えられた通り稲の種子をもってくるようにと鶴を放した。鶴は稲の種子を見つけることができたが、種子をくわえて飛んでいる途中、暴風にあって新原集落の北西側「カラウカハ」という泉があるところに落ちて死んだ。
鶴のくわえた稲穂がカラウカハで芽を出したのを阿摩美津が見つけ、受水走水の御穂田に水田を作り移植した。阿摩美津は、守に稲作についての耕作方法や料理方法まで習っていたこともあって稲はぐんぐんのびて実り豊作した。はじめは一ますだったが、二ます、三ますと水田を作り全部豊作し、琉球中に稲の種子を配布した。はじめに稲を植えたこの三ますの水田を三穂田と呼ぶようになった。

「玉城村の文化財概要」玉城村教育委員会より(要約)

親田御願

旧正月の最初の午(うま)の日に、受水走水(ウキンジュハインジュ)近くの親田(ウエーダ)で行われる稲作発祥伝説の行事である。字仲村渠区に四百年以上前から伝わる伝統行事で、親田に稲を植え豊作を祈願する儀式で、ツルが中国大陸から稲を運んだという伝説に由来し戦前前までこの行事を終えないと、この地域一帯の田植えは始まらなかったといわれる。

催事

ツルが稲穂を落としたとされる聖地「米地(メージ)」の拝みで初まり、親田で住民が水田に入り、苗を一本一本丁寧に植え付ける。祝毛(ユーエーモ)では三十三拝(サンジューサンペー)の四方拝を行う。立ったまま顔の前で手を合わせ拝礼するしぐさは群れ飛ぶ鶴を表現し、住民の感謝を込めた祈りが行われる。

原文侭

地図

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