大絣 発祥の地

おおがすりはっしょうのち

東武伊勢崎線 剛志駅から南西に約2.5km。伊勢崎市立第四中学校の近くにある、豊受歯科クリニック(伊勢崎市下道寺町1-1)敷地の端に建つ。

伊勢崎市は 桐生市と並ぶ群馬県下の二大絹織物生産地。 これら地方では古くから養蚕が盛んで, 絹織物の始まりは古代にまで遡るとも言われる。江戸時代中期に 養蚕農家の農閑期の副業として「太織ふとおり縞」が 織られるようになり, 明治中期になると「伊勢崎銘仙」として庶民的な織物となった。

伊勢崎銘仙は ふだん着用の反物として 全国にその名を知られるようになり, 注文が殺到した。伊勢崎銘仙の生産高は ピーク時の 大正から昭和初期で, 全国の女性の 10人に1人は1年間に一反を購入した計算になるほどの量だった と言われる。その後 日本人の着物離れによって 銘仙は衰退したが, 昭和50年(1975) には 伝統的工芸品の指定を受け, 現在は 伊勢崎いせさきがすりへと変化・発展している。

なお, 碑に書かれた「大絣」というのは, 伊勢崎絣の 一つの技法の名称を指す。

ちなみに, 群馬県には 全県的に「上毛かるた」が伝えられており, その【め】の札は,
  『銘仙織出す 伊勢崎市』
というものである。

「豊受」は、当地 伊勢崎いせさき下道寺げどうじ町を含むこの地域の旧地名 豊受とようけ村からくるらしい。

「とーぶいせざきせん」と案内されることが多いように思いますが、群馬県伊勢崎いせさき市と同じく「いせさきせん」が正しい呼び方のようです。

参考

写真

  • 伊勢崎織物大絣発祥の地
  • 伊勢崎織物大絣発祥の地
  • 伊勢崎織物大絣発祥の地 碑陰

碑文

報繊会結成五十五周年記念碑

伊勢崎織物
大絣発祥の地

伊勢崎織物の主要原料糸は, 古くから生糸, 玉糸を 使用し, その糸は60キログラムを一俵として白い綿袋 に入れ, 更にアンペラの袋に梱包され, 縄掛して取引された。
伊勢崎織物の最盛期の昭和の初期には, 約6万俵が消費され, この礎石はその俵を擬している。
又碑の台座は, 織物を反物として丸巻した姿を模した。

建碑の由来

伊勢崎太織が 地場産業として元亀元年頃(一五七〇年)には市場で取引されるようになり 明治十一年頃(一八八八年)には一般に伊勢崎銘仙と呼ばれ 全国的にはその声価をたかめ 伊勢崎産地の礎となった
この地 旧佐波郡豊受村も 伊勢崎産地の中心地区にあって 早くも弘化四年頃(一八四七年)には大絣の技法が開発され その後の先輩各位のたゆまぬ技術、器具の改善、工夫により 明治大正期に降って 伊勢崎銘仙を代表する大絣、併用銘仙として大きく開花し 昭和初期には和装界で一世を風靡するにいたった
この間に 誇りある伝統工芸の振興発展を期して同志一七二名相集い 大正十年九月(一九二一年)伊勢崎大絣有心会を組織し 今日の報織会の母胎を形成した
その後 幾多の変遷のあと 年産高四五五万反伊勢崎銘仙の黄金時代の昭和五年(一九三〇年)には加入会員一二〇名により報織会が新しく誕生した
社会 経済界ともに混乱を極めた第二次大戦後も同志協調して見事この苦境を克服し 昭和四十八年(一九七三年)にこの団体を後世に伝承する目的をもって三十三名の組合員の同意により法人組織報織協同組合として確立するにいたった次第である
一九七〇年代以降の生活様式 社会環境の変化につれて 服飾業界の変転も目まぐるしいものがあるが 今ここに往時をしのび 将来を展望するときいに 誇あるこの伝統技術の灯を守り次代への承継の決意を新にするものであります
今回報織会結成五十五周年の記念すべき秋にあたり温故知新の古諺にのっとりそのシンボルとしてここに建碑にいたった由来である
本会創立は秋恰も伊勢崎銘仙の最盛期であったが その後昭和の恐慌 戦時産業統制 七七禁令 第二次世界大戦 戦後の統制経済 銘仙の衰退等 激動の中で推移してきたが 歴代会長は卓越した指導力と識見にょり 会員を育成し全伊勢崎産地の模範とするところであったことは ひとえに各位の御功績の賜であり深甚なる感謝の意を表すものであります
今ここに輝ける御功績を賛え後世にその芳名を伝えるため謹んで銘記する

初代会長(以下八代会長まで芳名略)

昭和六十二年一月吉日
報織会協同組合

理事長他役員芳名略

建設委員(芳名略)

境野 治 撰文
大貫八生 謹書
㈲正田石材店彫

地図

地図

伊勢崎市下道寺町 付近 [ストリートビュー]