イトムカ鉱山 発祥之地
いとむかこうざんはっしょうのち
石北本線 西留辺蘂駅から南西に34km、北見市留辺蘂町富士見の国道39号沿い、かつてのイトムカ鉱山へ向かう道路の分岐付近に建つ記念碑である。碑には、イトムカ鉱山の発見から閉山までの経緯と、鉱山町として栄えた時代の歴史が刻まれている。碑文によれば、昭和11年(1936) の大暴風雨によって大雪山系の原生林に風倒木が大量に生じ、その搬出作業中に作業者が真紅で重い石を発見した。これが辰砂、すなわち硫化水銀を含む鉱石であり、イトムカ鉱山開発の端緒となった。
発見後、野村徳七が創業した野村鉱業によって開発が進められ、昭和14年(1939) に水銀生産が始まった。国立研究開発法人産業技術総合研究所の地質資料も、イトムカ鉱山について昭和11年(1936) の発見を開発の起点とし、昭和14年(1939) 創業としている。
鉱山は良質な水銀鉱を産出し、戦時中には国内水銀生産の大部分を担うまでになった。後に「東洋一の水銀鉱山」と称される規模となり、選鉱・精錬施設などが整備された。鉱山周辺には社宅が多数建設され、小中学校、病院、郵便局、公民館なども置かれた。碑文では、350余戸の社宅群を中心とする集落が「大町」と呼ばれていたと記されている。
その後、水銀需要の減少や鉱石の品位低下などによって鉱山経営は縮小し、昭和48年(1973) に閉山した。国会答弁でも昭和48年(1973) 6月の閉山が確認され、環境省資料も昭和48年(1973) の閉山を記録している。昭和49年(1974) には閉山後に野村興産がイトムカ鉱業所の技術・設備を引き継ぎ、水銀含有廃棄物の処理事業を始めた。
光輝く水をあらわすアイヌ語由来の名前「イトムカ」。かつては水銀鉱山として利用されていた。現在は水銀を扱う技術で乾電池や蛍光灯などの水銀含有廃棄物処理を引き受ける、日本唯一の処理場となっている。
写真
碑文
イトムカ鉱山発祥之地
昭和五十三年十月七日建立
イトムカ鉱山発祥之地の碑 建設発起人
(芳名略)
寄進者芳名
(芳名略)
碑文
昭和十一年北海道を襲った暴風雨は 大雪山系の原生林に多大の損害をもたらしたが偶然にもこの時 風倒木の搬出作業者によって美くしい真紅の重い石が発見された この石が水銀であった
関西の実業家 野村徳七の創業になる野村鉱業株式会社が 発見された地名イトムカ伝説に依ればアイヌ語の「光り輝く水」の意に因んで「イトムカ鉱山」と名付け 開発に着手したのは 昭和13年春のことである
爾耒三十有余年 イトムカ鉱山は東洋一の水銀鉱山として世界にも知られ わが国産業の発展に多大の貢献をなした
当時この地には 三五〇余戸の社宅群を中心に小中学校 病院 各官公署等がおかれその名も「大町」と呼ばれて栄えた
しかしながら内外の経済事情から ついに昭和四十八年鉱山はその使命を終えて閉山した
この碑はかつてはこの地に生活を共にした鉱山従業員と関係者一同の芳志によって深い懐旧の思いを 永遠に留めんことを願って建立されたものである
「爾耒」の「爾」の字は、2-3画目の「ハ」が省略され「雨」の異体字のように刻まれている。
石碑の形状について
石碑の形状は主柱に両翼を配した三本の柱としてイトムカ鉱山のマークを模したもので、夫々の柱は、本山、大町、留辺蘂の三事業所を、又鉱山の周辺に屹立して馴染みの深い三連峰の武華岳、武利岳、三国山を象徴したもので、両翼の朱色は、往事盛に採掘された真紅の水銀鉱(辰砂)を、主柱は流れ産出された、輝きの水銀を現わしたものである。
昭和五十三年十月七日
産業史跡
野村興産㈱イトムカ鉱業所「選鉱場」
「選鉱場」の概要
完成 昭和十九年十月
操業期間 昭和二十年八月~昭和四十五年七月
構造 木造トタン葺 屋根の長さ一三五、四〇m
建屋面積 十三階 三九六〇㎡(一、二〇〇坪)昭和十四年四月に本鉱山の開発が着手され、翌十五年に社名が野村鉱業㈱となり爾来、イトムカ鉱業所は戦中戦後期の国内水銀生産の殆どを占め、かつて、処理能力、生産量に於いて、東洋一の規模を誇ったのである。
ここ大町地区は、当時、社宅、寮等が立ち並び、診療所のほか、学校、郵便局、公民館など公共施設が整備され、一大集落が形成されて繁栄を極めたのであるが、時代の変革と共に昭和四十八年閉山によってその灯が消えるに至ったのである。
ここに本町並びに、わが国の産業振興発展に寄与した業績を讃えると共に、現存する巨大木造建築物の「選鉱場」を産業史跡として保存し、後世に伝えるものである。昭和五十六年九月
留辺蘂町長 坂本悟朗
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