岩手の 盲聾教育 発祥の地

いわてのもうろうきょういくはっしょうのち

東北本線 盛岡駅から 北東に800m。“啄木新婚の家”から東に100mの“岩手県民生活センター”の敷地内南東隅に「岩手の盲聾教育発祥の地」と刻まれた記念碑と, 柴内魁三氏の業績を記した副碑が建っている。

柴内しばない魁三氏は“岩手が生んだ特殊教育の父”と呼ばれる。日露戦争で受けた銃創により両眼を失明し,障害者に職業技術を身につけさせるた必要を痛感。明治43年(1910)に 盛岡に「楽善会」という組織を設立して広く寄付を集め,翌年 自ら校長となって「岩手盲唖学校」を開校した。開校時は借家を校舎としていたが,大正3年(1914)に ここ盛岡市中央通りに新校舎を建設,移転した。

しかし 学校経営は経済的に厳しく,寄付のみで運営することに限界を感じて 公立化を運動した結果,大正14年(1925)に県立に移管され「岩手県立盲唖学校」となった。

昭和10年(1935)には 現在の盛岡市北山に校舎・寄宿舎を新築移転。戦後 昭和23年(1948) 障害者教育が義務教育になると共に「岩手県立盲学校」「岩手県立聾学校」に分離された。県立聾学校は 後に「岩手県立盛岡聾学校」と改称し 現在地(盛岡市乙部)に移転。

初代校長の 柴内魁三氏は,その後も 県民の福祉に関連する要職を歴任し,その業績に対して 数々の表彰を受けた。それらの偉業を顕彰するために,平成元年(1989)に 最初の校舎があったこの地に,記念碑が建てられた。

写真

  • 岩手の盲聾教育発祥の地
  • 岩手の盲聾教育発祥の地 説明

碑文

岩手の盲聾教育発祥の地

この地は,柴内魁三が,私立岩手盲唖学校を,大正三年六月に設置したところ,岩手の盲聾教育発祥の地である。

平成元年九月二十四日
柴内魁三先生顕彰碑建立委員会

 柴内魁三先生は,明治十二年九月十日 盛岡市大沢川原小路に生れ,日露戦争に従軍して両眼を失明されたが,明治四十四年この近隣に私立岩手盲唖学校を創設して校長に就任,大正三年この地に校舎を建築して盲聾教育に尽力されました。
 また,盛岡水道組合・盛岡消費組合・購販利用組合盛岡 病院・岩手薬品購販利用組合を設立して組合長に就任,市民,県民の福祉に貢献されました。
 更に,岩手県盲人会を設立し会長に就任して盲人の福祉向上に精励,学校が県立に移管され北山に移転後も校長として永く盲聾教育の父と慕われ,この地に残った旧校舎を岩手県身体障害者会館として身体障害者全体の福祉充実にも力を及ぼされました。
 昭和四十一年三月九日,病により八十六歳で逝去,愛宕町の恩流寺の墓地に眠っておられます。

地図

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盛岡市中央通3丁目 付近 [ストリートビュー]