定火消 発祥の地
じょうびけしはっしょうのち
中央線 市ヶ谷駅を降りると 外堀の向こう側にソニーミュージックエンターテインメントの市ヶ谷ビルがある。この建物の前に 新宿区が設置した標柱が建っている。
江戸の町は 木造の家が密集して建てられ,「火事とケンカは江戸の華」と言われるほど火事が多かった。このため幕府は消防のため「大名火消」「定火消」「町火消」を組織して 火災に備えた。
「大名火消」は 16の大名家を指名して, 大名の石高に応じて要員を常備させ、大名屋敷と江戸城, および幕府関連の主要施設の消火にあたらせた。
「定火消」は 官制の組織で, 江戸市中 15ヵ所に 火消屋敷を設け、それぞれに常時100人を超える人夫を常勤させた。ただし 定火消の消火の対象は 武家屋敷が中心だった。
「町火消」は 「いろは48組」で有名で, 当初は一般の町人の住宅が消火の対象だったが、後には 武家屋敷の火災にも出動し, 江戸城の火災の際にも活躍した。町火消は 組の名誉をかけて働き 競争心が旺盛であったため, 非常に効果を上げたと言われる。この当時の消火作業は 破壊消防が主で, 放水による消火は 放水設備が乏しいためほとんど行われなかった。
町火消の制度は 明治以降は「消防組」→「警防団」→「消防団」と名前を変えていった。
定火消については, 新宿区のホームページに詳しく説明されていた。
定火消は、明暦3年(1657) の「明暦の大火」で江戸の大半が焼失、その翌年の万治元年(1658) に幕府が創設した。定火消とは、4人の旗本を任命しそれぞれ市谷左内坂・麹町半蔵門外・飯田町・御茶ノ水上に火消屋敷を与え、各隊に与力6人、同心30人、火消人足およそ100人を付属させ、これらが常駐する制度である。
当初は4ヶ所におかれたが、最大時には15ヶ所となった。また、定火消は江戸城の北部と西部におかれていた。これは、江戸の火災が北西の季節風が強く吹く冬に多く、これらの地域から出火すると風下である江戸全域、特に江戸城が危険にさらされる為だったと考えられる。
火消屋敷内には高さ約9メートルの火の見櫓が建てられ、櫓には大太鼓と半鐘が吊られていた。火消人足は大部屋に平生寝起きし、夜寝る時には細い丸太棒を枕とし、火災の知らせがあると不寝番が丸太棒の端を槌で叩いて起こしたという。
今回歴史標柱の建てられた市谷左内坂の火消屋敷は、2300坪の広さがあり、現在の市谷左内町21番地全域と市谷田町1丁目の一部にあたる。
写真
碑文
定火消 発祥の地万治元年(一六五八), 新たな消防制度として江戸に誕生した定火消の屋敷のひとつがこの市谷左内町二十一番地および市谷田町一丁目地内に置かれました。屋敷内には火の見やぐらが立てられ, 定火消役の旗本以下, 与力六人, 同心三十人, 火消人足およそ百人が火事に備え, ここに初めて火消しの常駐する場所がつくられました。
平成十七年二月 新宿区