寒地稲作 この地に始まる
かんちいなさくこのちにはじまる
千歳線 島松駅から西に3km。国道36号線を千歳方面から北に進み 恵庭市から北広島市に入るとすぐ西側に広島畜産センターがある。その向い側の広場に クラーク博士記念碑とならんで「寒地稲作この地に始まる」と書かれた白い石碑が建っている。
北海道における稲作は.寛文年間に
しかし 開拓農民の米作りへの執着心は強く,各地で多くの努力がなされた。 その中で 中山久蔵という人物が 1871(明治4)年に この地 島松に入植し“赤毛種”と呼ばれる耐寒性の強い品種を用いて試作をはじめた。水温を一定に保つため昼夜を問わず管理し,2年後にようやく種もみの発芽に成功,反当り345kgの米を収穫。これが北海道の米づくりの夜明けとなった。
その後 各地の開拓移民に種もみを無償で配布,ここから全道に米づくりが広がった。
中山久蔵が 北海道で本格的な米作りを普及させた功績はきわめて大きく,“寒地稲作の祖”と呼ばれている。
余談だが,中山久蔵は 1884(明治17)年に 島松の駅逓取扱を命ぜられ,1897(明治30)年に駅逓が廃止されるまでの13年間 駅逓所の経営にあたった。駅逓は 駅舎と人馬を備えて,宿泊と運送の便をはかる施設で,開拓期の北海道で重要な役割を果たした。島松駅逓所は1873(明治6)年に札幌本道(現在の国道36号)の開通に伴い設置された。
札幌農学校の初代教頭を務めたウィリアム・クラーク博士は,1877(明治10)年に 在任8ヶ月で札幌を去るにあたり,多くの学生や職員に見送られて,ここ島松駅逓所で「
写真
碑文
寒地稲作
この地に
始まる北海道知事 町村金五
ここは 明治六年 大阪府出身の中山久蔵が最初に米作を試みたところとして 永く記憶さるべき地である
当時道南地方を除いては 北海道の米作は危険視され 万全の開拓方針をたてることができなかったが 明治四年 単身率先してこの地に入地し開墾に従事した久蔵は あえてまずここに水田一反歩を開き 種子を亀田郡大野村から求めてこれを試み成功し その安全さを証明したばかりではなく その種子を道内各地の希望者に無償配布して成功せしめた ために附近の水田耕作熱は とみに高まり 空知 上川の穀倉を拓く基を開き ついに北海道を全国一の米産地に育てる因を作っ たのである昭和三十九年九月
北海道大学教授農学博士 高倉慎一郎 撰文
鈴木凌雲 書設計制作 本多明
石材施工 山本一也
建立者 中山久蔵翁記念碑設立協賛会 広島村