関西商工学校 発祥之地
かんさいしょうこうがっこうはっしょうのち
大阪市北区大淀南2丁目、なにわ筋沿いの歩道に黒い背の低い碑が建った。付近は平成30年(2018) 3月現在、再開発の真っ最中。旧朝日放送ビルや、大阪プラザホテルの跡地では超高層のタワーマンションが建設中だ。
碑には「関西商工学校発祥之地」碑文の内容はこのあたり、福島地区の学生街としての成り立ちについての記述がメインだ。建立は平成24年(2012) と新しめ。
「関西商工学校」は現在の「関西大倉学園」の前身で、大阪最初の夜間実業学校として、明治35年(1902) に、初代校長 平賀義美氏によって開校された。平賀氏は大学南校(現東京大学)に学び、イギリスに留学後農商務省から大阪府立商品陳列所の所長などを務め、産業立国・実業教育振興の理念を提唱。自らこれを実践して向学心を抱きながら昼間就学困難な青年達のために夜間の関西商工学校を創立した。かの松下幸之助氏も関西商工学校(予科)で学んでいる。
当初は堂島の市立大阪高等商業学校(現大阪市立大学)内に仮校舎を設けたが、明治38年(1905) に当時西成郡鷺洲町大仁と称したこの地に、新校舎を建築して移転。更に昭和6年(1931) には3階建ての鉄筋コンクリート校舎を新築した。この校舎は建築家 宗兵蔵氏の設計で、当時壮麗なデザインと堅牢さを誇り、大阪の名建築とうたわれた。空襲にも耐え残り、新学園の本館校舎として、またこの地のシンボル的存在として長く愛用された。
同校は関西実業学校への名称変更を経て、戦後の昭和23年(1948) に「大阪大倉商業学校」と合併し、「関西大倉学園」として新発足、15年後の昭和38年(1963) に茨木市室山2丁目に広大なキャンパスを建設して移転した。学園の茨木移転に際し,関西商工学校由来の全敷地は売却されその土地に朝日放送やプラザホテルが建った。朝日放送の電波塔は「大阪タワー」とも呼ばれ、プラザホテルとともに、付近のランドマークとなっていた。それも平成20年(2008) に移転してしまい、こんどはタワマン建設工事が続いている。
「関西商工学校発祥の地」の碑は、大倉学園の茨木移転後の昭和44年(1969) にOB有志により、旧校地である当地の近隣の八阪神社(北区大淀中3丁目)境内に「顕彰碑」として建立していた。平成28年(2016) 夏には、八阪神社の顕彰碑は撤去されて、茨木の現在地に移設していた。
参考
リンク
写真
碑文
大阪の学生街 福島
- 関西商工学校発祥之地 -明治時代中期から昭和初期にかけて、現在の福島区から北区にかけての地域には大阪商業高校(現在の大阪市立大学)をはじめ10校余りの学校がありました。これらの学校には寄宿舎や寮がなかったため、地方出身の学生たちは周辺の住宅に下宿して通学していました。その為、福島一帯は大阪を代表する学校街、学生街としてその名を知られ、東京の神田、京都の吉田と並び、三大都市の三大学生街と称せられました。この地はそれらの学校の一つである関西商工学校跡地です。
関西商工学校は産業界の人材育成を目的として、明治35(1902)年に創建された大阪で最初の夜間学校でした。明治38(1905)年に北区堂島よりこの地に移転しました。昭和23(1948)年に近隣にあった大阪大倉商業学校と合併して関西大倉高等学校となりました。
大阪市教育委員会・関西大倉学園