近代活版印刷 発祥之地

きんだいかっぱんいんさつはっしょうのち

長崎電軌 賑橋停留所から北西に250m。長崎市消防局の東側にある長崎自治会館の南西端に「新町活版所跡」と刻まれた石碑があり,上に「近代活版印刷発祥之地」と添えられている。

活字を使用した活版印刷術は,15世紀半ば(室町時代)に,ドイツのグーテンベルクによって創始された。日本に活版印刷が初めて紹介されたのは,1848(嘉永元)年に オランダ船が運んできた印刷機と活字によってであった。

長崎のオランダ語通詞の本木昌造は長崎奉行所に進言して,役所内に“活字板摺立所”を設立,明治2年(1869) には長崎製鉄所附属の“活版伝習所”を設立し,ここでアメリカ人ウィリアム・ガンブルを日本に招き,活字鋳造及び組版の講習を受けて ようやく“流し込み法”といわれる方法(活字の鋳型に手で溶けた金属を流し込む簡便な手法)で鉛活字の製造に成功した。これによって 本木は「近代活板印刷の始祖」と呼ばれることになった。

明治3年(1870) にはここ興善町に民間印刷所“新町活版所”を開き,活字製造と印刷の事業を始め,“長崎版”と呼ばれるオランダ語図書の復刻を行ったり,自著の「蘭和通弁」などの印刷を行った。明治5年(1872) には新町活版所で 週刊の“長崎新聞”を発刊したりしている。

本木の門弟の一人である平野富二は,1873(明治6)年に 東京・築地に“長崎新塾出張活版製作所”(後の“東京築地活版製造所”)を興し,活字だけでなく活版印刷機械を製作販売した。黎明期の印刷業界の先駆者として 築地には活字発祥の地の碑が建てられている。

自治会館横の発祥碑左手に,50個以上の小さな活字を並べたプラスチックケースが展示されており,横には説明が書かれている。

また,この長崎自治会館から200mほど西にある 長崎市立図書館の南端には“活版伝習所跡”の碑と説明板が設置されている。


自治会館坂上の角にあった石碑は、2014年頃に自治会館が建て替えられた際に坂下(南東方向)へ10mばかり移設され、要再調査ということで [未訪問] の地図表示となっています。

写真

  • 活版伝習所跡
  • 活版伝習所跡 説明
  • 活版伝習所跡 側面
  • 活版伝習所跡 側面
  • 近代活版印刷発祥之地
  • 近代活版印刷発祥之地 モニュメント
  • 近代活版と本木昌造
  • 近代活版印刷発祥之地

碑文

近代活版印刷発祥之地
新町活版所跡

近代印刷の始祖木本昌造は明治3年(1870)永年研究の鋳造活字に成功しこの地に新町活版所を興して印刷企業の第一声をあげここに文明開化の先駆をなし偉大なる近代印刷文化の道を拓くに至った、その発祥の地たるゆえんである。

長崎県印刷工業組合

活版伝習所跡

 わが国近代活版印刷術の祖・本木昌造は,安政14年(1857)オランダのインデマウルから活字印刷の技術を習得,明治2年(1869)に長崎製鉄所付属の活版伝習所をこの地に設立しました。そして,上海美華書院の活版技師ウィリアム・ガンブルから学んだ「電胎法」を採り入れ,日本文字の活字鋳造に成功,これがわが国の活字印刷技術を大きく進歩させることになりました。
 明治3年(1870)以降は新町(現在の自治会館付近)で私塾と活版所を経営し,後進の指導にあたりました。

近代活版と本木昌造

このモニュメントは,本木昌造を始祖とする我が国・近代活版印刷のイメージが明確に伝わるように,復刻した往時の鉛製活字を用い,デザインしたものです。活字を囲むアクリル樹脂の現代的な感覚と金属の持つ歴史的な重みが調和し,美しいコントラストを醸し出すように工夫されています。
 モニュメントの活字は次のとおりです。「近代活版印刷の父・本木昌造が確立した蝋型電胎法による母型作りから流し込み活字鋳造までの全工程を復元。」

設置者 さるく観光幕末編推進委員会
デザイン考案者:吉田隆

地図

地図

長崎市興善町 付近 [ストリートビュー]