久慈湾 開発 起源の碑
くじわんかいはつきげんのひ
八戸線 久慈駅から東に3km。諏訪公園の北側に,久慈港に面してすわ緑地(久慈市長内町第36地割12-28)がある。津波によってすべてが失われて荒涼とした空地となった中央付近に「久慈湾開発起源の碑」と刻まれた平板状の黒い石碑が建っている。
久慈湾は岩手県東部にある湾で,湾口の幅は約3km、奥行き約2km。ゆるやかなカーブを描いた奥行きの浅い湾である。北の八戸港,南の宮古港の中間に位置し,付近一帯は良好な漁場で,古くから漁業の中心地として繁栄したが,久慈湾はその形状から 小さな漁港しかなかった。戦後 久慈港を県北地域開発の拠点とする計画が持ちあがり,その基盤整備として 昭和31年(1956) から堀込港湾の建設に着手した。久慈川の南側をL字型に1kmほど堀り込んで,昭和44年(1969) に水深6mの大型岸壁が完成。鉱産品及び林産品等の輸送基地,漁業基地として利用が活発化した。
この「開発起源の碑」のあるすわ緑地は堀込港湾の入口にあたり,事業の推進に尽力した当時の久慈市長 山内堯文氏の胸像もこの近くに建てられている。
その後も 新たに埋立により諏訪下地区に大型埠頭が完成。さらに平成2年(1990) より,南北2800mの湾口防波堤の建設が着手されるなど,整備が進められた。しかし,平成23年(2011) 3月11日の東日本大震災による巨大津波のために,久慈市の沿海部は甚大な被害を受けた。
「開発起源の碑」は下の写真のように台石からもぎ取られて無残な姿をさらしていたが,現在は傷だらけの姿ながら 元通りに修復されている。
写真
碑文
久慈湾開発起源の碑
平成元年3月吉日 建立
久慈市長 久慈義昭
諏訪下地区土地区画整理事業地権者
事業年度昭和三十七年~五十三年度(以下芳名省略)
平成元年3月吉日
久慈市長 久慈義昭