日本 女医 第一号 荻野吟子 開業の地(浅草)
じょいだいいちごうおぎのぎんこかいぎょうのち
都営地下鉄浅草線 本所吾妻橋駅の北350m、東武伊勢崎線 スカイツリーライン とうきょうスカイツリー駅の西650m、集合住宅前の歩道に教育委員会による看板が設置されている。
日本初の公認女性医師である荻野吟子が、明治18年(1885) に日本で最初となる女性のための医院「荻野医院」を開業した場所である。
吟子は度重なる困難を乗り越え、同年に医術開業試験に合格した。当時の医療現場では女性が男性医師に診察されることを忌避する傾向が強く、受診をためらう多くの女性が存在した。吟子はこの状況を深く懸念し、女性患者が安心して医療を受けられる専門の医院を構える必要性を痛感した。その結果、本所向島の地が最初の活動拠点として選ばれた。
開院した荻野医院には、女性医師による診察を求めて全国から数多くの女性患者が集まった。吟子は、産婦人科を中心に女性特有の病気や悩みに寄り添う医療を実践した。この医院の誕生は、病に苦しむ女性たちの救済に大きく貢献しただけでなく、医療分野における女性の専門職としての地位を確立する重要な転換点となった。
当時の向島は隅田川に近い風光明媚な地域であり、多くの文化人や住民が往来する場所であった。この地に開業したことで、女性医師の存在は広く社会に認知されることとなった。
なお、夫が理想農場建設のため北海道瀬棚に渡ったのを追い、吟子も明治27(1894) 年に瀬棚に入植し、再開業して、現在も瀬棚においても「開業の地」と謳われている。
写真
碑文
荻野医院跡 ──日本女医第一号 荻野吟子開業の地──
所在地 墨田区向島1丁目8番
荻野吟子は、嘉永4年(1851)3月3日に武蔵国幡羅郡俵瀬村(現在の熊谷市俵瀬)の名主荻野綾三郎の五女に産まれました。幼い頃より向学心が強く、近所の寺子屋で手習いを受けた後は寺門静軒の弟子松本万年に師事して学問を身につけました。医師を志したのは一回目の結婚後のことで、自身の病気療養中に女医の必要性を痛感したのがきっかけでした。吟子は以前夫の家に仮寓していた女性画家奥原晴湖に相談して決意を固め、東京女子師範学校(後のお茶の水女子大学)卒業後の明治12年(1879)、市立医学校「好寿院」に入学しました。そして、女性であることを理由に二度にわたって試験願書を却下されながらも決して諦めず、同38年3月、ついに医術開業試験に合格したのです。時に吟子35歳。早くもその都市の5月には現在の文京区湯島に産婦人科医院を開業して評判を高めました。
しかし、開業後間もなくキリスト教に入信した吟子の後半生は必ずしも安穏としたものではなかったようです。北海道での理想郷建設を目指す14歳年下の志方之善と再婚した吟子は、明治27年に自らも北海道に渡り、以後しばらくは瀬棚や札幌で開業しながら厳寒地での貧しい生活に耐えねばならなかったのです。その吟子が閑静な地を求めて開業したのは志方と死別して間もない明治41年12月、58歳の時でした。
晩年は不遇でしたが、吟子は日本で初めて医籍に登録された女性として、吉岡弥生など医師を目指した後続の女性たちを大いに励ます存在であり続けました。大正2年(1913)6月23日、62歳で亡くなりました。
平成24年3月
墨田区教育委員会
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