日本最初の旅客機

にっぽんさいしょのりょかっき

日本で初めて飛行機を設計製造し、大正11年(1922)に天竜十号が完成(エンジンのみイタリア FIAT)。人間の代わりに砂袋を積んで検査を通過したが、該当する法律が無いことを理由に旅客営業は認められなかった(日本の伝統文化)。初飛行地となったのは、天竜川河川敷に作られた福長飛行場。

機体は現存しておらず、浜松市立南陽図書館には、複葉の上下を支える木柱と木製プロペラだけが展示されている。

その後は、平成になってようやく小型ジェット機が企画・製造されるようになるまでは、国産旅客機は長らく昭和37年(1962)に初飛行したYS-11(エンジンはイギリス ロールスロイス、他計器類等諸外国製部品多数)のみという状態が続いていた。

モニュメントは、浜松市立飯田小学校(浜松市南区飯田町978)の校舎脇に建ち、校舎内には福長浅雄や天竜十号の展示スペースもあるという。当校所在地で製造されたわけではないが、福長浅雄氏の母校であるという。

写真

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碑文

日本最初の旅客機

日本大学名誉教授
木村秀政先生筆

福長浅雄は明治二十六年大塚町の農家に生れ十二才で小学校を卒業し、木材会社で働きました。生れつき非常に研究心が強く、将来は飛行機の時代が来ると考え家業を他人にまかせて千葉県におもむき飛行機について勉強し、自らフランスから古い飛行機を買入れ、組立て修理等して飛ばしたのですが当時の苦労は大変なもので、飛ぶより墜落の危険の方が大きく命がけでした。大正六年の事です。
大正八年天竜川河口に福長飛行機製作所をつくり、四郎・五郎の弟達と協力して飛行機の製作をはじめ大正十一年に記念碑の上部に飾ってある様な国産として日本最初の六人乗り旅客機を完成させ天竜十号と名づけました。参考書や指導者のない中で兄弟力を合せて造り上げられた努力はすばらしい事です。此の飛行機には色々新しい技術が導入られ、専门的に見ても当時の最高傑作でした。福長浅雄は皆さんが常に新しい工夫に取組む人となる事を望みながら、昭和五十五年八月八十八才で亡くなりました。

昭和三十六年九月十九日

福長浅雄顕彰委員会

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