先物取引 発祥の地

さきものとりひきはっしょうのち

JR西日本 東西線 北新地駅から 南東に300m。堂島川を渡る歩行者専用の橋「中之島ガーデンブリッジ」の北詰, 大阪全日空ホテルの向い側に “稲穂を手にした子どもたち”の像と,「堂島米市場跡記念碑」と刻まれた 赤御影石の石碑が建つ。

「先物取引」は デリバティブ取引の一種で, 「現物取引」が 商品そのものを売買するのに対して, 価格や生産量が変動する各種商品について, 将来の一定の時期にある価格での取引を約定するもの。

江戸時代 全国の諸藩は, 当時の経済の中心であった大阪に蔵屋敷を設け 年貢米を貯蔵し 商人に売却した。その中で最も有力な商人であった「淀屋」は,現在の淀屋橋の南詰で盛んに米の売買を行ったことから,次第に他の商人たちも集まり 自然に一つの市場を形成,「淀屋米市」と呼ばれた。わが国における取引所はここに始まったとされる。

その後 この市場は 1697(元祿10)年に対岸の堂島に移され,後に「堂島米会所」と呼ばれるようになった。堂島米会所は最初は米の現物を扱っていたが, 享保初年ごろから 帳簿上の差金の差引き計算によって取引の決済を行う「帳合米取引」を開始し,1730(享保15)年には 幕府から公許された。これが今日の先物取引の始まりといわれる。(これ以前にも ロンドンやベルギー・アントワープの先物取引市場があったが, 近代的な商品先物取引は堂島米会所が最初とされる。)

大阪の米先物市場は 明治以降も継続され, 米の流通が統制された 1939(昭和14)年まで続いた。 戦後 商品取引所が再開されたが, 米だけは 現在も先物取引が認められていない。


平成30年(2018)に、安藤忠雄による米粒型のモニュメント「一粒の光」に置き換えられ、「稲に遊ぶ子ども」像は右方下流側へと移設された。堂島米市場跡記念碑は添えられていないようで、行方は不明。

写真

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碑文

堂島米市場跡記念碑

享保十五年(1730年) 幕府は 堂島米市場に米の先物取引である帳合米取引を公認した その取引の手法は現在の大阪証券取引所を始めとする世界各地における組織化された 商品・証券・金融先物取引の先駆をなるものであり 先物取引発祥の地 とされている
背後の像は昭和二十八年 彫刻家横江嘉純氏により製作され昭和三十年堂島米市場跡建碑会により寄贈されたものである

寄贈 社団法人日本証券業協会大阪地区協会
平成二年三月

地図

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北区堂島浜1丁目 付近 [ストリートビュー]