公益質庫 発祥地

こうえきしちこはっしょうち

日南線 大堂津駅から南、大堂津郵便局の向い側の大堂津海水浴場駐車場の南東隅の線路際に「公益質庫発祥地」と刻まれた 自然石の石碑と,由来を記した黒御影石の副碑が建っている。

“質庫”とは“質屋”のこと。質屋は鎌倉時代から存在したと言われ,かつては庶民金融といえば 質屋であった。しかし1970年ごろから消費者金融が興ったため質屋は衰退し,現在では 金銭の貸付よりも 宝飾品や有名ブランド品などの買取りが主体となっている。

公益質屋は1927(昭和2)年に施行された“公益質屋法”に基づき,市区町村あるいは社会福祉法人が福祉事業として行った質屋のことで,一般の質屋と比べて金利が低く,質流れまでの期間が長い,しかも質流れ後に売却益が出た場合には債務者に差額を返済する,などの大きな利点があった。 ちなみに平成12年(2000)の一般の質屋の金利は年利109.5%であるのに対して 公益質屋は 29.2%。

しかし 経済情勢の変化により 公益質屋の需要はは激減し,公益質屋法は平成14 平成12年(2000)に廃止された。

日本で最初に公益質屋ができたのは 1912(大正元)年。この地、宮崎県細田村大字大堂津(当時)で, 細田村営質庫と称した。当時の細田村は人家が1,000戸足らずの貧しい漁村で,漁民は少数の網元に使われ,僅かの賃金を得てその日を暮らしていた。 何日も不漁が続くと家財道具一切を質に入れて食料に変え,着るものもない状態で暮らす状態であった。 質屋の利息も月に10%にもなった。

時の村長、隈本和平は,ヨーロッパにおいて公営質屋の制度があると聞き,困窮する漁民の救済保護のためこれを利用できないかと考え,宮崎県知事 有吉忠一氏に相談し賛同を得た。前例がないため準備は困難を極めたが,村営質庫規則などを整備し,村の基本財産の中から5,000円を繰り入れてようやく開業。利息は月1.3~1.6%という低利で,村民には大いに歓迎された。

興味深いのは,開業以来7年間 質流れが一度もなかったという。

その後公益質屋は各地に広まり,大正末には30件を数え,昭和に入って法律により公益質屋法が制定されると,その数は最盛期 昭和14年(1939)に 1,100を超えた。

写真

  • 大堂津駅
  • 公営質庫発祥ノ地由来
  • 公益質庫発祥地
  • 公営質庫発祥ノ地由来 背面 創立委員芳名
  • 公益質庫発祥地 背面 碑文

碑文

公益質庫
発祥地

この地は社会事業史上我が国最初の公益質庫 発祥の地でありその後 経済情勢の発展により昭和四十一年三月廃止された

公営質庫発祥ノ地由来

 公営質庫トハ 公営質庫法ニ基キ市町村又ハ 社会福祉法人ガ経営スル質庫ヲ言ウ 我ガ国ニ於テコノ法律ガ制定施行サレタノハ昭和二年ノコトナリ  コノ法律制定ノ基礎ヲナシタノガ大正元年細田村大堂津ニ於テ実施サレタ細田村営公営質庫ナリ 依ッテ細田村営公益質庫ハ我ガ国公営質庫ノ始マリテアリ 大堂津ハソノ発祥ノ地ナリ コノ公営質庫ハ大堂津漁民ノ生活困窮救済ノ方法トシテ 当時ノ村長隈本和平ガ立案シ 実務ヲ宇賀村藤被ガ担当セシモノデ我ガ国ニ前例ナキタメ ソノ労苦ハ並大低ノモノデハナカリシト伝エリ  後 隈本和平ハ県会議員ヲ四期ツトメ地方発展ノタメ多大ノ貢献ヲナシ人々ノ尊敬ヲ集メタ 宇賀村藤被ハ大堂津信用組合初代組合長トナリ地区住民ノ生活発展ニ貢献セリ 依ッテ知事町長 講談社カラ自治功労者トシテ数々ノ表彰ヲ受ケタリ コノ公営質庫誕生ノ影ノ功労者トシテ惜シミナキ支援ヲ与エラレタノハ 当時ノ知事有吉忠一氏 財界ノ服部右平次氏ナリ 国ノ施策ニ先ダツコト十五年前大正元年ニ宮崎県ノ一寒村ニ於テ誕生シ 我ガ国公営質庫法ノ先達トナリシコト 及ビコレニヨリ地区住民ガ大イナル恩恵ニ浴セシコトハ永久ニ記憶サルベキコトナリ 茲ニコレラ先見ノ明ヲ讃エ公営質庫発祥ノ由来ヲ書キシルシ 後世ニ伝エムトスルモノナリ

昭和六十年七月

大堂津地区有志一同

地図

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日南市大堂津3丁目 付近 [ストリートビュー]