ぶどう 発祥の地

ぶどうはっしょうのち

 温泉地として知られる山形県南陽市の赤湯から、山形新幹線(奥羽本線)と併走する国道13号線を北上し、「日本一小さな湖」の白龍湖を過ぎると、鳥上坂と呼ばれる峠に差し掛かる。かつては「鳥も上がれぬ坂」と言われた交通の難所だったようだが、道路も良くなりそのような面影はない。ぶどうの碑は、その峠の頂上付近、国道と鉄道に挟まれたところに建てられている。1979(昭和54)年建立。

斜面に「ぶどうの碑」とある大きな石碑と、三つのこの地を愛した文人の歌碑がある。北隣、上山生まれの斎藤茂吉「をとめ等が 唇をもて つつましく 押しつつ食はむ 葡萄ぞこれは」、林房雄「みちのくの 古き赤湯の 湯の町に デラウェイの葡萄 かがやきみのる」、折口信雄「やま縣の 赤湯のやどの をさなごの おもかげたち来 ふたう(ぶどう)をはめば」とそれぞれ刻まれている。

 山形県のブドウ栽培の歴史は江戸時代に甲州からこの周辺 川樋地区に持ち込まれたことが始まりとされている。甲州から近隣の鉱山に来た金の採掘人がブドウの苗木を植え始めたという説と、この峠が山岳信仰で栄えた出羽三山を目指す修験者の通り道だったために修験者が持ち込んだという説の二つがある。

いずれにしても、日照が十分あり、寒暖差が大きく、排水が良いという栽培に適した風土が、甲州と共通していたのだろう。碑文によれば、この頃の原木といわれる古木が戦後まで残っていたらしい。山形県は現在でも山梨、長野に次いで全国第3位の生産量を誇るとのことだ。

 明治時代、ヨーロッパやアメリカから小粒のデラウェア種が入り、ますます盛んに栽培されるようになった。大正時代には米よりも高値で取引され、地域の発展に大きく貢献した。その後、栽培は現在の南陽市を中心とする置賜おきたま地区全域に広がっていった。昭和30年代には生産技術が進化で、種なしブドウが普及していったという。

南陽市の南隣の高畠町立石地区にも「ぶどうの記念碑」がありややこしい。こちらは川樋地区から遅れること数十年、大正時代からブドウ栽培が始まったようだ。記念碑の建立は高畠市が1942(昭和17)年。

写真

  • ぶどうの碑
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  • ぶどうの碑建立の記:山形県におけるぶどう発祥の地
  • ぶどうの碑 歌碑
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碑文

ぶどうの碑建立の記

 ぶどうの里南陽市赤湯は古来よりいで湯の里として県下に名をなしてきた。また、この地のぶどう栽培は遠く江戸時代初期に始まったといわれており山形県におけるぶどう発祥の地である。川樋地内大洞鉱山が盛りをきわめたころ甲州から来た鉱夫が甲州ぶどうを持ち込んだのが最初であったとも出羽三山の行者が持ちこんだともいわれているが定かではない。
 爾来永年にわたり甲州ぶどうが栽培されその原木と思われる古木が昭和三十年頃まで金沢地内に残って居た。大正十二年、十分一山の開放により斜面ぶどう栽培地が拡大され、デラウエア種が本格的に栽培されるに至った。
 昭和三十五年、画期的なジベレリン処理による種なしぶどうが開発されると栽培は全市に広がり恵まれた風土と自然環境、加えて栽培者のどりょくによってデラウエア日本一の王座を占めるに至った。
 ぶどう栽培は南陽市の基幹産業の一つにまで発展し観光面にも大きく裨益した。南陽ぶどうの今日あるは幾多先覚者の献身的な努力とたゆみない研究によるものであり、なかでも新関角次、石岡末吉、須藤鷹次、丸森輿五右衛門、小林正家、酒井哲、米常太郎各氏らのぶどう栽培にかけた熱意また流通販売に一生をかけた須藤直一郎氏の功績に負うところがきわめて大きい。
 千古の謎を秘めた白竜湖と湖面に映るぶどう山の姿は天下に誇る景観でありここを訪れた文人もまた少なくない。
 ここに有志相寄りぶどうの碑建立実行委員会を結成しぶどうの碑ならびに斎藤茂吉、折口信雄、林房雄三氏作のブドウの歌碑を建立し永遠にわがまちの誇りとする。

昭和五十四年三月

ぶどうの碑建立実行委員会

南陽市・南陽市議会・南陽農業協同組合 観光葡萄園振興会 赤湯温泉旅館協同組合 南陽青果物出荷商組合 南陽市観光協会 南陽ライオンズクラブ(湯村五郎・錦三朗撰文)新山昌孝謹書

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