岐阜 大根 発祥の地

ぎふだいこんはっしょうのち

東海道線 岐阜駅から北北東に5km。岐阜環状線“則武中2丁目北”交差点から東方に曲約100m位行った右側に「岐阜大根発祥の地」と書かれた碑が建っている。ここ則武地区は,岐阜県で初めて大根が作られた土地とされ,平成19年(2007) に岐阜市農協によってこの発祥碑が建立された。

長良川は岐阜県北部の大日ヶ岳に始まり,岐阜市を東西に流れ,揖斐川と合流して伊勢湾に注ぐ,いわゆる“木曽三川”(木曽川・揖斐川)の一つである。長良川の右岸(北側)に位置するこの地一帯(島・則武・鷺山地区)は,上流から運ばれた砂質の土壌が堆積しており,2m掘っても石ころが出ない肥沃な土地である。

則武地区で大根の栽培が始まったのは,江戸時代中期の18世紀半ばごろと考えられているが,それ以来順調に大根栽培が行われたわけではない。この地域は川に挟まれていて,しかも川は河床が高いため 頻繁に河川の氾濫が起き,しかも一旦出水するとなかなか水が引かず,農作物の栽培は困難であった。このため明治期までは 麻・豆・菜種などの短期間で収穫できる作物,洪水の少ない秋~冬に作られる 守口大根や麦などが作られていた。

大正期からは 養蚕が盛んになり一帯は桑畑になったが,昭和初期になると絹糸の需要が少なくなり 養蚕業も衰退し,野菜作りが盛んになった。これは 岐阜の人口が増えて野菜の消費量が増加したこと,河川の改修が進んで洪水の頻度が少なくなったことなどの背景があった。

戦後はハウス栽培が盛んになり,漬物用として大根が作られるようになり,春と秋冬の2期にわたって京阪地方や首都圏などに「岐阜だいこん」として出荷されている。

なお,「岐阜だいこん」というのは 品種名ではなく,“岐阜で作られた大根”のことであり,品種は青首大根が中心である。

写真

  • 岐阜大根発祥の地

碑文

岐阜大根発祥の地

岐阜市長 細江茂光書

 この地域は,長良川の影響を受けて形成された耕土の深い砂質土壌の地である。
 ここにだいこんの種が播かれておよそ三百数十年,その芽はその道一筋に受け継がれ,何時しか岐阜だいこん発祥の地と呼んで鼓舞しながら成長を続け,その間献上品や特産品として,また年貢引当作物として,そして経営主幹作物としてその時々重要な役割を果たしながら今日に至っている。
 しかしその道程は,水害や連作障害,ウイルス病等の発生,戦争やオイルショックの影響,都市化の圧力,またきつい天地返し作業や人糞尿の搬入作業など,過酷な作業と深刻な局面に追い込まれて苦難の連続,その窮地克服に向けた「苦労と努力」の尊い汗を忘れてはならない。
 特に昭和四十年代以降に到来する産地間競争の激化には,いち早く組織体制を整えてマルチ,ハウスなどによる新作型の導入と出作り栽培を組み合わせて品質の向上と出荷期間の拡大に成功すると共に,高冷地だいこんと連繋した県産だいこんの周年供給体制を確立。また徹底した土づくりと,えだまめ,ほうれんそうなどとの輪作体系の確立。消費者指向の変化に対応した品種更新,更には都市地域故に難しいとされた全量共販の実施など,「高品質だいこんの安定生産・出荷」を軌動に乗せて,岐阜だいこんブランドを確立し,不動のものとした賞賛に値する活動を展開している。
 このことは当時岐阜県が,産地間競争の激化に対処して打ち出した園芸共販百億円達成計画や銘柄産地育成計画など振興施策の推進にも先導的な役割を果たすなど,こうした功績が認められて昭和六十二年には中日農業賞(農林水産大臣賞)を受賞。
 そして飽食と安全・安心志向の今,岐阜だいこん発祥の地は,消費者に信頼され市場から期待される銘柄産地として輝き,あの苦労の汗を爽快な自信と喜びの汗に代えて誇りながら,更なる前進を続けている。
 それは正に,発祥の地から授かった英知と,何があっても前進するの気概,そして先手必勝の行動力とこれを成し遂げた素晴らしい仲間,素晴らしいリーダーによる強固な組織活動がもたらした成果であり偉業であった。

「だいこんと 一筋に生き 幾星霜
発祥の地は 永遠に栄えん」

今井秀夫記

地図

地図

岐阜市則武中3丁目 付近 [ストリートビュー]