本然学舎 橋本学校 開設の地

ほんねんがくしゃはしもとがっこうかいせつのち

横浜線 相原駅の南東 700m。町田市立堺中学校から 境川を挟んでの南東側に,曹洞宗 瑞光寺がある。山門前に石碑が建っている。

明治初年の学制の施行により,当時の相原村は明治6年(1873) に瑞光寺に「本然学舎」(後に「橋本学校」)を,大字相原の正泉寺に「益進学舎」(相原学校)を, 小山の蓮乗院に「養麟学舎」(小山学校)を開設した。 その後 橋本学校の校舎は 現在の旭小学校(相模原市橋本6丁目、瑞光寺から南東に400m)の場所に移転。

明治35年(1902) これら3校を統合し 校名を暫定的に「尋常高等相原小学」とし, 翌年,「旭小学校」の校名を採用し「相原村尋常高等旭小学校」と改称した。

旭小学校の校名が決まるまでには 次のようないきさつがあったという。明治35年(1902) に3つの小学校が統合されることになったが,各学校の地域が 自校の名称を残そように主張。 何度協議を行っても決まらないため,とりあえず「相原小学校」として開校。 さらに協議を続けたが やはり結論が得られず,村会で夜を徹して議論が行われ 朝を迎えたら 外は雪になっていた。そこで村長が「今日は明けて9日,“九日”を記念して 『旭』という校名にしよう」と提案。全員が賛成して この校名が決まったという。

なお,この石碑は 本然学舎の開校から 約110年後の 昭和59年(1984) に建立された。「益進学舎」と「養麟学舎」 の跡地にも それぞれ記念碑が建てられている。

写真

  • 本然学舎 橋本学校 開設の地 碑陰
  • 本然学舎 橋本学校 開設の地

碑文

本然学舎 橋本学校 開設の地

相模原市長 舘盛静光書

明治五年学制の発布あり 翌六年九月 橋本村は此処に学校を開設し本然学舎 と称す 瑞光寺十九世岱嶽量宗大和尚 (米齋)安田減宗が教師に任ぜられ 六才より十二歳までの男子十八名及女 子二名が生徒となり入学 明治八年橋 本学校となる 明治三十五年相原村立 学校発足し 翌三十六年校名を旭小学 校と改む

昭和五十九年十月建立

生徒 後裔縁故者
当山二十七世住職上村利行
企画協賛 橋本郷土研究会

生徒
福沢安右ヱ門
相沢 菊太郎
相沢 潤五郎
石川 慶治郎
牛久保政五郎
牛久保 イト
尾沢 藤五郎
加藤 タキ
谷  郡蔵
中村 吉五郎
中村千代治郎
中村 重太郎
松島 三五郎
矢島 寅治
矢島 小太郎
矢島 源蔵
矢島 三年
柚木 斉市
柚木 廣五郎

地図

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