帆引き船発祥の地
ほびきぶねはっしょうのち
常磐線 土浦駅から霞ヶ浦大橋に向って, 霞ヶ浦に半島のように突き出た一帯がある。この“半島”の先端近くに 歩崎公園があり, この公園内の“かすみがうら市水族館”前の広場に4m近い大きな白い石碑と, 帆引き船の形を刻み込んだ 副碑が建つ。
霞ヶ浦の名物「帆引き船」は, 明治13年(1880) にかすみがうら市に住む 折本良平氏によって 考案された。最初は水面近くを泳ぐシラウオ漁を, 後には 水中深いところにいる ワカサギ漁を主に, 昭和42年(1967) までの100年間 霞ヶ浦における主要な漁法として広く行われた。
帆引き船は大きな帆を使い, 風の力によって船を横に流して漁をする。帆船は通常、帆に風を受けて前に進むが, 帆引き船は 風力で網を引きながら 横に進む, という世界的にも珍しい漁法である。
現在では観光用のみが残されている。夏期には沿岸各地から乗船することができる日もある。
後に、碑の横に帆引き船がモチーフとみられる児童遊具が設置された。
写真
碑文
帆引き船発祥の地
帆引き船発祥の宣言記念碑
明治時代になると,御留川(幕府・水戸藩の設けた禁漁区)の制度もなくなり自由に操業が行えるようになり 煮干などが商品として有利に販売されると,漁民も漁に熱が入った。そして加工法の改良に力をそそぐ一方,魚をとる方法ががいろいろと研究され始めた。
そのころ坂村(現在の霞ヶ浦町)二ノ宮の折本良平は高瀬舟が帆にいっぱいの風を受け湖面を走っていくのにヒントを得て,風力による漁法を考案した。しかし,風を利用して舟を動かし網を引くといっても中々思うようにならなかったが,三カ年の苦心研究の結果,明治十三年初めて霞ヶ浦に帆引き船が浮かんだ。
良平が最も苦心をしたのは,網をひろげることで,このために舟を横に走らせ,さらに舟の前後に「出し棒」 をつけて網口をひらくことで,大成功をおさめた。
この漁法は良平自身が指導したこともあって沿岸の漁民の間にまたたく間に普及し,数千人の漁民が生活の安定を得たとさえ言われる。まさに画期的な発明で明治三十年第二回水産博覧会で褒章を受けている。
また明治四十五年その業績をたたえる水産関係者の手により,屋敷前に頌徳碑が建てられた。(現在は歩崎観音境内)
しかし,昭和四十年頃から動力を利用するトロール船にとって替わられ,帆引き船は姿を消した。町では,霞ヶ浦漁業の歴史を知る上で,極めて重要な 文化遺産であることから昭和四十六年に観光帆引き船として復活させた。
このような霞ヶ浦を代表する風物詩である帆引き船を守り,その勇壮な姿を後世に伝えていくこと,そして,その傑出した風景美を広く全国に発信していくことが私たちの願いである。
この願いを実現するため,私たちは,心をひとつにして,帆引き船を活かした個性的で魅力あるまちづくりを 進めるため,「帆引き船発祥の地」を宣言し,ここに記念碑を建立して,帆引き船を永く後世に伝えるものである。平成十七年三月吉日
霞ヶ浦町長 郡司豊廣 撰文
帆引き船について
明治なると,漁業も自由にできるようになり,加工法や商品化,流通化が一層すすんで,漁法の改良が期待されてきた。
その頃,坂村の折本良平は高瀬舟の帆にヒントを得て3ヶ年の研究と実験をくり返して 遂に明治13年風の力を利用して綱を引く「帆引き船」を発案し,またたくまに沿岸漁民の間に普及した。
その後,帆や綱の改良,猪牙船の出現によって,明治・大正・昭和と霞ヶ浦漁業は隆盛をきわめ,沿岸数千の漁民の生活が安定した。
昭和30年ごろから発動機船が普及し,帆引き船は櫓に代ってエンジン音を響かせて出漁するようになり 昭和42年トロール漁法が許可されると,次第に3代80余年の雄姿が消え去ることになった。
猪牙船=ちょきぶね
贈
平成元年11月吉日
総合建設業
株式会社嶋田興業
代表取締役 嶋田信熙製作 石心