茨城 黄色種 創始記念碑
いばらきおうしょくしゅそうしきねんひ
常磐線 羽鳥駅から北西に約9km、北関東自動車道 笠間西I.C. から南東に約10km、瓦会郵便局の角を曲がった先にある日笠神社(石岡市瓦谷2335)の拝殿手前南側に背の高い石版がある。
黄色種とは煙草葉の品種で、世界的にも多く生産されている。収穫葉は大きく自然乾燥に適していないため乾燥室で人工的に加熱して昇温と排湿をはかり黄色に固定して乾燥させる。一回の乾燥は80~120時間。乾燥中に葉中のでんぷんの糖化が行われるので、乾葉は特有の甘い香りがする。瓦谷地域でも近隣には乾燥室だった建物がいくつか遺っているという。
茨城県では北部(水府煙草栽培起源碑がある)や西部では在来種の生産がされていたが、米葉と通称される黄色種についてはこの瓦会村瓦谷地区で試作されたのがはじまりだった。その後県内に広く生産されるようになり、茨城黄色種と呼ばれることになる。
碑の建立は昭和30年(1955) 12月と刻まれているが、広報八郷(昭和31年4月30日 第10号)によると除幕は翌4月16日だったという。施主は県たばこ耕作組合。健康志向からか政治的意図なのか、煙草葉の生産は減少していることに原因があるかはわからないが、あまり熱心には手入れをされておらず碑文は苔のようなものが付いていてたいへん読みづらい。
瓦会村は、昭和30年(1955) に隣接する町村と合併し、八郷町となった。
八郷町は、平成17年(2005) に隣接する石岡市と合併し、石岡市となった。
写真
碑文
茨城黄色種創始記念碑
日本專賣公社 総裁 入間野武雄書
水府達磨桐ケ作などの木■煙草産地に黄色種を始めて栽培せられたのは昭和四年二月でこの種の最適地を検索の結果元瓦会村瓦谷で篤農家の石田通三郎藤井清三広沢菊太郎三君に耕作試験を嘱託されてからである 三氏は共同作業で四反歩を試作し当時の鑑定課長瀨谷元利氏が指導更に大阪より抜術に堪能な樋川皿松氏を招いて管理に当らしめた 生産葉は量目少くて小形で葉肉充実色沢鮮黄前途有望だと本局の渋谷正良氏の判定 偶々讚岐米葉の開拓者高木千尋氏が局長として赴任以耒耕作は益ゝ拡張された 本種は乾燥困難病害に罹り易くその成績も亦優劣甚だしくために指導員耕作者等幾多の辛酸苦勞をかさね次第に在耒種より転換者もふえ県南地方に新規産地を設定する等により累年増加 更に当局の指導奨励改良等の努力は遂に茨城黄色種の耕作法を確立するに至り今や実に四千五百町歩の大産地にまで躍進した往時を回顧して転た感慨無量 茲に本種耕作二十五周年を迎え記念碑を建立するに当り黄色種創始時より私道に関係したので請はれるまゝにその梗概を勒した次第である
元水戸地方局煙草部長 坂場魁介 撰文 富永直書
昭和三十年十二月吉日 建之
建碑賛助者連名(略)
建碑発起人(略)林幸次郎 ■