人繊工業 発祥之地

じんせんこうぎょうはっしょうのち

山形県米沢市を一望する御成山公園に石碑が建つ。公園は舘山という山にあることから、舘山公園とも呼ばれている。

石碑の建立は昭和46年(1971)。帝人株式会社の創立50周年記念の一環。研究を支援してきた明治期の財閥、鈴木商店の子会社、東工業が、大正4年(1915)、ここ米沢市で人造絹糸製造所を創業したことが碑の由来である。

米沢高等工業学校(山形大学工学部の前身)講師の秦逸三氏が、何度も二硫化炭素中毒で倒れながら、パルプから人工絹糸を作る方法を発見したことが、日本の人工繊維の始まりとされている。公開実験を見た人々は「木から絹ができる」と驚いたという。工場はその後改組され、帝人の前身、帝国人造絹糸となり、昭和6年(1931) まで、米沢で操業していた。十数名ではじまった工場は、十年あまりで従業員300名を超える米沢最大の工場となり、大正15年(1926) には米沢市と共同で上水道を設置するなど、同市の発展に大きく寄与した。

碑のとなりには「秦逸三君の胸像の記」があるが、胸像は見当たらない。胸像は長く帝人の三原事業所(広島県)にあったが、東工業の人造絹糸製造所創業100年にあたる平成27年(2015) に帝人から米沢市に寄付され、松が岬公園第二公園(上杉神社参道)に設置されている。「胸像の記」だけが、発祥の地の碑のとなりに移設されたとのことだ。

実際に工場があった場所は、現在の米沢市立第三中学校。繊維から医薬品まで、化学工業をグローバルに展開する企業が生まれた土地が、現在は中学校になっているというのも興味深い。同中学校で学ぶ生徒たちが知れば「いずれは自分も」と思うだろうか。近年流行の大学発ベンチャーのはしりと言ってもいいかもしれない。

写真

  • 人繊工業発祥之地 案内板
  • 秦逸三君の胸像の記
  • 秦逸三先生の案内場
  • 人繊工業発祥之地
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碑文

人繊工業發祥之地

人繊工業発祥之地

 この「人繊工業発祥之地」の石碑は、帝人株式会社創立50周年の記念事業の一つとして、日本で最初の人造絹糸(レーヨン繊維)工場跡地(現在の米沢市立第三中学校)を一望できるこの場所に建立されたもので、米沢が日本における化学繊維(人繊)発祥の地であることを示しています。
 人造絹糸の製造技術は欧州で開発され、明治時代の末期には、その製品が日本に輸入されるようになりました。こうした中、米沢高等工業学校(現 山形大学工学部)の講師として赴任した秦逸三は人造絹糸を作る研究を進め、パルプから糸を得る事に成功し、「木から絹ができる」と人々を驚かせました。
 1915年(大正4年)、この研究を援助してきた鈴木商店の子会社であった東レザー(後の東工業)が、閉鎖されていた米沢製糸場跡を買い取り、秦逸三を工場長に迎えて人造絹糸の生産を開始しました。独自技術による手探りの生産で試行錯誤の連続でしたが、生産技術の確立に加え、第一次世界大戦で人造絹糸の輸入が減少したことから生産を伸ばし、1918年(大正7年)には東工業から独立して帝国人造絹糸株式会社が創立されました。同社は1962年(昭和37年)に帝人株式会社へ社名を変更し、化学繊維をはじめ、化成品、医薬医療等に業容を拡げ、グローバルに事業を展開する企業に発展しています。
 人造絹糸の生産は、その後、多くの企業が参入して急速に拡大し、日本は世界でも有数の生産国となりました。現在では、人造絹糸から発展したいろいろな化学繊維が、産業資材用途、家庭用品、衣料品等、幅広い用途で使用され、我々の生活を支えています。日本の化学繊維の第一歩はここ米沢の地からスタートしました。

地図

地図

米沢市館山 付近 [ストリートビュー]