「勝浦」地名 発祥の地

かつうらちめいはっしょうのち

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どなたか見てきてください!

鹿児島本線 東郷駅から北に7km、道の駅むなかたから南西に4.5km、県道502号 玄海田島福間線から勝浦岳神社(福津市勝浦)に入る分岐の草むらに看板が立っている。

写真


碑文

当地は「勝浦」地名発祥の地です

「勝浦」神功ジンコウ皇后、新羅にかちて帰り この浦にあがらせ給う。故にかうらと名付くと云う。

柏原益軒(1630~1714)の「備前国」続風土記より

今から1800年以上前の西暦200年頃、仲哀チュウアイ天皇と神功皇后(第15代応神天皇の母)が都(奈良)から少数の家来を連れて 三韓(新羅)征伐のために当地勝浦へやって来ました。ここで宗像水軍や勝浦人を結集し征伐の戦略を練り、203年 桂嶽かつらだけ勝浦かつうら嶽)へ登り必勝祈願を行い、205年勝浦浜(桂浜)と神湊コウノミナトから対馬海神族や宗像水軍を水先案内人にして、神功皇后、武内宿禰タケノウチノスクネ等(仲哀天皇は死亡したため出兵出来ず)が征伐へ出兵しました。
勝利を収め206年に帰還し、この年瀬戸内海を通り都へ凱旋する路々で、ついて行った勝浦人たちに褒美(論功行賞)としてそれぞれの土地が与えられ、与えられた者が「阿波勝浦」「那智勝浦」「(高知)桂浜」等々、全国10ケ所以上に「勝浦」の名がつけられたと伝えられています。
当時、漢字はなく呼び方がそれぞれ違っており「かつうら」「かつら」「かちうら」と呼ばれその後漢字が根ついた頃「勝浦」「桂」になったと思われます。当地も、今でも「勝浦浜」を「桂浜」と言ったり「勝浦嶽」を「桂嶽」と呼び区別がついていません。「勝浦」は勝った浦「勝島」は勝ったところにある島「勝浦浜」は勝った浦の浜「神湊コウノミナト」は神功皇后の湊と伝えられています。
私たち、勝浦に住む者は先人が残したロマン溢れるこの宝(財産)をシッカリ、後世に引き継いで行くことが使命であると思ってやみません。

西暦2008年(平成20年)7月 勝浦古代ロマンを語る会

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福津市勝浦 付近 [ストリートビュー]