日本最初の 航空機 事故 犠牲者 墜落の地

こうくうきじこぎせいしゃついらくのち

西武新宿線 航空公園駅から東に3km、武蔵野線 東所沢駅から北西に3km、所沢聖地霊園南部にあたる学園通りの南側に面した第一駐車場の一番奥、造園会社の脇から霊園の区画に通じていない砂利道を少し進むと金属柱標が立っている。左右にある石柱が入口門を示していたものと思われるが、見た目にも新しく、近年になって追加されたものとみられる。

大正2年(1913) 3月28日に、東京青山練兵場での国会議員向けの観覧飛行からの所沢飛行場へ帰着直前、突風に煽られて当地 下新井の地に墜落した。搭乗していた2名の中尉は殉死した。

翌年、二中尉の銅像の記念碑が建設され、何度か移転を繰り返して、現在は航空公園内に。銅像を失った下新井の地には「殉職の處」碑が建てられ現在に至る。

石碑の脇にある松井まちづくり協議会の標柱が入口にある標柱と似た作りの色違いサイズ違いなので、何か関連があるかと思われる。まちづくり協議会の情報がネット上に乏しく関連性はわからない。

霊園ホームページに案内が無いどころか、園内地図にも表示が無く、駐車場に案内も無く、当地から隣接する霊園区画に出入りすることができないなど、霊園が全く関与していない独立した施設だと言うことがわかる。

なお、霊園住所は北隣の北原町ということになっているので、当碑を北原町と紹介されることがある。しかし住居表示の多くの場合事務所地を表しており、当碑がある場所は学園通りの南側なので北原町ではなく下新井ということになる。

航空発祥の地

写真

  • 日本最初の航空機事故犠牲者墜落の地
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碑文

所沢市指定
文化財史跡 
木村・徳田両中尉墜落地

日本最初の航空機事故犠牲者墜落の地

昭和四十四年六月二十七日指定 所沢市教育委員会

わが国ではじめての
航空殉職の地

大正二年三月二十八日正午頃
東京青山練兵場において皇太子をはじめ
貴・衆両院議員の公開飛行を終え
所沢飛行場に帰航中の「ブレリオ」式単葉機が
この上空三〇〇メートルにさしかかった時
突風のため左翼が壊れ墜落し登場の
木村鈴四郎徳田金一両中尉が
殉職を遂げられました。

所沢市牛沼戦友会 建

所沢市指定文化財(史跡)

木村・徳田両中尉墜落地

所沢市は日本初の飛行場が開設され、「航空発祥の地」として知られていますが、航空界初の犠牲者が出たのも、この所沢の地でした。
大正二年(一九一三年)三月二十八日、陸軍省は航空機の重要性を説くため、貴族院・衆議院議員を対象に青山練兵場での観覧飛行を行いました。その帰路、木村鈴四郎砲兵中尉と徳田金一歩兵中尉の登場したブレリオ機は、午前十一時五十九分、所沢飛行場を目前にして突風を受け左翼が折れて墜落、両中尉とも即死でした。事故現場は、旧松井村下新井柿木台(現在の所沢下新井)にあたります。
両中尉の所沢での葬儀は、三月三十一日におこなわれ、会葬者は所沢飛行場から飛行機新道、日吉町を通り所沢駅に行き、停車場踏切南方まで見送ったといいます。事故後、両中尉の記念塔を建てようとする運動がおこり、やまと新聞社が中心となって義金を募集、墜落現場の土地を購入して、両中尉の銅像記念塔が建設されました。除幕式は一周忌に当たる大正三年(一九一四年)三月二十八日に挙行されています。
この記念塔は、昭和四年(一九二九年)に所沢駅前へ移送され、さらに何度かの移転を繰り返しましたが、昭和五十六年(一九八一年)に所沢航空記念公園内に移され、現在に至っています。
記念塔の移転後、ここ墜落地跡には、根府川石で作られた「木村・徳田両中尉殉職記念碑」が建立されました。

平成二十三年三月

所沢市教育委員会

木村德田兩中尉殉職之處

文化歴史遺産⑲ 松井まちづくり協議会

日本初飛行機事故の地

2019年3月

地図

地図

所沢市下新井 付近 [ストリートビュー]