京都 映画 誕生の碑
きょうとえいがたんじょうのひ
京阪電鉄 鴨東線 神宮丸太町駅から 東に1.7km。黒谷の金戒光明寺の北隣に 天台宗 真如堂(左京区浄土寺真如町82)がある。 ここの本堂の前に 不思議な箱状のモニュメントが建っていて「京都映画誕生の碑」と書かれている。
この箱状のモニュメントは,映画撮影に使われた“シネマトグラフ”カメラをかたどったもので, フランスのリュミエール兄弟によって発明された。 このカメラは,映画の撮影機と映写機の両方の機能を持つ,いわば“オールインワン”カメラだったという。
下記の碑文に書かれているように,映画の技術が日本にもたらされたのは 明治30年(1897)のことで, 当時の映画作品は,劇場で演じられる芝居の実写や たとえば日露戦争の戦場を写したような記録映画などで, いずれも短編のものであった。
本格的な劇映画は,明治41年(1908)に マキノ省三が ここ京都の真如堂で撮影した時代劇『本能寺合戦』で, もちろん無声映画であった。それから 100年経った 平成20年(2008),「京都・映画 100年」と題する映画祭が開催され, そのイベントの一つとして この記念碑が建立された。その除幕式には 牧野省三の孫である長門裕之をはじめ 多くの映画関係者らが集まった。
写真
碑文
京都
映画誕生の碑碑文
1895年フランスのリュミエール兄弟によって発明された映画(シネマトグラフ)が, 2年後の1897年に実業家稲畑勝太郎氏の手により日本に持ち込まれ,初めて上映されたのがこの京都の地でした。 当初の映画は,全てすでに存在する被写体を撮影した今日でいう記録映画でしたが, スクリーン上に動く映画は,それを観る人々を魅了したのです。
世紀が替った1908年,横田永之助氏の依頼をうけた牧野省三氏は, シネマトグラフを用いて歌舞伎の劇映画化に挑戦しました。 思えば歌舞伎の原点は京都の地にありました。 牧野省三氏の試みは,この歌舞伎という京都の伝統芸能を映画という新しい時代の科学技術と結びつけ, 京都の映画を誕生させたのです。以来,京都では多様にして大量の映画が創られることになりました。 これを支えたのが,京都がもつ伝統芸能の力,伝統工芸の力,歴史都市京都の歴史的景観等々, まさに,京都の文化力に培われたものであり,それが1世紀間の時を経て京都の文化となりました。
京都で劇映画が創られて100年目というこの記念すべき節目の年に当り, 牧野省三氏がその第1作「本能寺合戦」を撮影したこの地「真如堂」境内に, その足跡を深く刻み,益々の映画発展を願って「京都・映画誕生の碑」を建立するものであります。2008年10月1日
「京都・映画100年宣言」プロジェクト推進協議会
天田精治
小林勝美
貴志カスケ