京都 印刷 発祥之地
きょうといんさつはっしょうのち
京都市営地下鉄
活字を使った活版印刷技術は 幕末に長崎に伝来したのが最初で,本木昌造がこれを実用化したのが 明治2年(1869) のことであった。その後この技術を身につけた本木の門弟らが 各地に印刷技術を広めていった。関西では大阪に伝わり,次いで 明治3年(1870) に古川穂次郎が 京都烏丸通りに
點林堂は 京都における近代印刷業の発祥地であり,その後 京都には多数の印刷所が開設され,明治26年(1893) には“京都印刷業組合”が設立された。この発祥碑は,組合設立120周年を記念して 點林堂が最初に開業した場所に近いこの地に 平成22年(2010) に設置された。
「京都印刷発祥之地」の文字が裏文字になっているのは,配列された活字をかたどったもので,また 碑の上面には『京』の文字が やはり裏文字で陽刻されており,発祥碑が1本の活字を表している。
写真
碑文
京都印刷発祥之地
京すりもの ここに始まる
平成二十二年五月建立
京都府印刷工業組合
印刷は文化である
世界三大発明の一つである「印刷」は,百万塔陀羅尼を始めとするそれまでの木型・金型刷りの技術を進展させ,著しい情報の伝搬を可能とし,文化の拡張に同調してきた。
我が国の印刷は,明治三年長崎にて本木昌造先生が金属活字による活版印刷を始められたのを創始とする。
明治三年十二月,先生の門人,古川穂次郎氏が京都上京区(現中京区)第廿八組 烏丸通三條場之町 三十三番戸で「黙林堂」を開業した。これを「京都の印刷」の嚆矢とする。山鹿善兵衛氏などが跡を継ぎ,後に三條柳馬場東に移転した。
文字を主とした活版印刷後,絵画に適した石版印刷,コロタイプ印刷が始まり,オフセット印刷,グラビア印刷等を經て印刷は進歩し,文化に広く浸透し続けるのである。
近年はコンピュータの発達により,印刷はその前工程,後工程も含め急速にその成り立ちを深化させている。この技術はWEBの成長と共に,情報産業として印刷業務の範囲を拡大し,紙以外への取組みも始まり,印刷の文化も更なる展開を続けている。
明治二十四年,申合組合として,京都印刷業組合が結成されて壱百貳拾年となる邂逅の本年,印刷における「京すりもの」の出発点を確認し,陽に繁る樹木の如く,吾らの将来の恒久発展を祈念し,永く記憶に留める為に,「黙林堂」跡地に,「京都印刷発祥之地」の碑を建立する。平成二十二年(二〇一〇)五月吉日
京都府印刷工業組合
京都印刷発祥之地石碑建立にあたり,
左記の方々に多大の御協讃を頂き,
その銘を記し,永くその謝意を表します。京都府頁物印刷協議会
京都印刷協和会
京都光学製版
〈記念碑について〉
この記念碑は活字の型を模したものである。字面(碑頭部)と腹(全面)の文字は活字にちなんで逆文字となっている。〈背景の絵画について〉
「背面の絵画」は京都造形芸術大学の藤井秀雪先生のご尽力により,関本徹生教授に産学協同事業として完成して頂きました。
〈左側のツゲと浮世絵について〉
活字はツゲの木でも作成していた。(活字の字母の元になる父型もツゲで作成。)そして刷り物として広がったのが浮世絵を代表とする木版画。芸術文化は高尚なものではなく,一般書庶民の日常生活の中に,まさしく目と鼻の先にあった。それらを示唆したのが媒体(印刷物)である。〈左側から2番目:プラタナスと鍾馗について〉
プラタナスは平和の木。鍾馗は魔物を追い払う。印刷発祥の地は平安京内裏からみて,辰巳(南東・立夏)の方向,辰は木期の終わりであり,陽気動き,雷がきらめき,振動し,草木が伸張する状態。そして巳は火気の始まりで万物が繁盛の極になった状態である。力強く伸び進んでいく,そんな地に存在した。現在の御所から見ても南であり,火気の真中(午),夏を表している。〈左から3番目:青桐と鶴について〉
広島に原爆が投下された時,生き残っていたのがアオギリの木。その生命力,子孫繁栄力,平和を願う力の源は愛の力である。愛を広く伝える力は言葉(言霊)で あり,芸術(文化)であり,媒体(印刷物)でもある。平成22年(2010)5月24日
京都府印刷工業組合