三厩 村名 発祥之地
みんまやそんめいはっしょうのち
津軽線の
源義経は,頼朝に追われ奥州衣川館で自刀したことになっているが,実は義経は死んでおらず,津軽海峡を越えて蝦夷に逃がれて生き延びた,という“北行伝説”がある。
伝説によると,義経は藤原泰衡に急襲される前に平泉を脱出し,津軽半島の先端に近いこの地に辿り着いた。しかし強風により船に乗ることができず,足止めと なった。困り果てた義経は,大きな岩の上に守り本尊の観音像を置き,3日3晩経を唱えた。すると白髪交じりの仙人が現れて3頭の馬が与えられ,無事に蝦夷 まで辿りつくことが出来た。
その巨岩には3つの岩窟があることから3頭の馬の厩だったとされ,“三厩”の地名の由来となったと伝えられる。“厩石”の説明板には次のように書かれている。
江戸時代になり蝦夷地の開発が進むにつれて,三厩は奥州街道の本州側の最終宿場町として重要な拠点となり,本陣・脇本陣が設置され,三厩湊は蝦夷地への中継地・風待ち場となり,また蝦夷地からの物資を取り扱う廻船問屋が軒を連ねる賑わいとなった。
写真
碑文
三厩村名発祥の地
厩石の由来
文治五年(1189年),兄頼朝の計らいで,衣川の高舘で藤原秦衝に急襲された源義経は,館に火をかけ自刃した。これが歴史の通説であるが,義経は生き ていた!藤原秀衡の遺書 (危険が身に迫るようなことがあったら館に火をかけ,自刃を粧って遠くの蝦夷が島(北海道)へ渡るべし) のとおり北を目指しこの地に辿り着いた。
近くに蝦夷が島を望むが,荒れ狂う津軽海峡が行く手を阻んで容易に渡ることが出来ない。そこで義経は海岸の奇岩上に座して,三日三晩,日頃信仰する身代の観世音を安置し,波風を静め渡海できるように一心に祈願した。
丁度満願の晩に,白髪の翁が現れ“三頭の龍馬を与える。これに乗って渡るがよい”と云って消えた。翌朝厳上を降りると岩穴には三頭の龍馬が繋がれ,海上 は鏡のように静まっていて義経は無事に蝦夷が島に渡ることができた。それから,この岩を厩石,この地を三馬屋(三厩村)と呼ぶようになりました。