民族学博物館 発祥の地

みんぞくがくはくぶつかんはっしょうのち

西武池袋線 保谷駅から南東に500m。南の田無駅に通じる“かえで通り”に面して清水建設の社宅の前の歩道上に,「民族学博物館発祥の地」と書かれたステンレスパネルが建っている。

碑文に書かれているように,発祥碑の背後にある清水建設の社宅がある場所には,かつて「民族学博物館」があった。渋沢敬三氏が学生時代から収集していた動植物の標本や化石・民具などのコレクション(アチックミューゼアム)をここに移管し 昭和14年(1939) に開館したが,やがて経営的に行き詰まり,1962(昭和37)年に閉館した。その後この収蔵品は 国に引き継がれ,現在は国立民族学博物館の展示品の一部となっている。

国立民族学博物館は昭和49年(1974) に設立され,昭和52年(1977) に大阪・千里の万博公園の中に博物館がオープンした。 “大学共同利用機関法人”という聞き慣れない組織になっており,民族学・文化人類学を中心とした研究を行い,収蔵品は博物館で展示されている。

設立の際の収蔵品は,渋沢敬三氏のコレクションと,大阪万博のテーマ館のために世界中から集めた品々が 中心になっており,その後 世界各地の民族資料が大量に収集されている。


社宅はすでに無い。


再開発が決定し、令和5年(2023) 夏に大型小売店がオープンするとのこと。また敷地北隅にはコンビニ的な平屋が建設されていた。その横に控えめな広場が用意され、ステンレスパネルは路上から公園入口脇に移設されていた。

写真

  • 民族学博物館発祥の地(2022)
  • 民族学博物館発祥の地(2022)
  • 民族学博物館発祥の地
  • 民族学博物館発祥の地
  • 民族学博物館発祥の地 図部分
  • 民族学博物館発祥の地 民族学博物館全景
  • 民族学博物館発祥の地 背面
  • 民族学博物館発祥の地 設置状況

碑文

民族学博物館発祥の地

かつてここ(西東京市東町1丁目11番地)には,日本初の野外展示物を含む民族学博物館がありました。その設立に物心ともに多大な貢献をしたのは,渋沢敬三と高橋文太郎,今和次郎でした。

渋沢敬三は,視察したヨーロッパの博物館をヒントに同志の先頭に立ち,1937(昭和12)年,三田の自邸アチックミューゼアムから収集した民具等をここに移し,民族学研究所そして民族学博物館をつくりました。旧保谷在住でアチックの一員・民俗学研究者高橋文太郎は,広大な敷地の提供・工面(当初は約30,000㎡の計画,その後縮小),民家の寄付などの協力をしました。民家研究者・考現学提唱者の今和次郎は,博物館の全体構想図を描くとともに民家の移築などに尽力しました。
1939(昭和14)年に開館した博物館は民家などの建物を野外に配置する一方,民具等を屋内に陳列し,戦中戦後は一時中断したものの,一般市民に公開されました。
しかし時代を先取りし常民の生活に着目した博物館は,維持経営に行き詰まり,1962(昭和37)年閉館しました。
民具等の標本約47,000点は国に寄贈され,文部省史料館を経て現在の国立民族学博物館に引き継がれています。また野外展示物の一つ高倉は,東京・小金井の江戸東京たてもの園に移築され現存します。
この地に常民生活文化の発信源があったこと,またその探求・教育普及に精魂傾けた渋沢敬三たちの功績,これらを忘れさることなく後世に伝えるため,これを建てます。

2009(平成21)年11月

高橋文太郎の軌跡を学ぶ会記

寄贈⑴

(芳名略)

(お問い合わせ 西東京市教育委員会)

寄贈⑵

(芳名略)

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