連歌の発祥地(不老園上)
れんがのはっしょうち
中央本線 酒折駅から 北西に300m。甲斐善光寺の近く。酒折宮神社の北に
不老園の脇から結構きつい山道を5分ほど登ると, 石垣で囲まれた奥に台座石のようなものが一つだけ置かれた妙に狭い空間があり、鉄柵で囲まれている。ここが酒折宮跡だという。 横には「連歌発祥の地」という説明板が掲げられている。それら向い側には 「にひばりつくばをすぎて・・・」と古事記の歌が書かれた歌碑が建っている。これが連歌発祥の地の碑らしい。
酒折宮跡と言われる場所は とても狭く、おまけに何の説明もないので, 本当にここが? という印象だけが残る。ごく小規模の祠が造られたのだろうか。
『日本書紀』にると、
「にひばり つくばを過ぎて 幾夜か寝つる」
(新治や筑波の地を過ぎて、幾夜寝たのだろうか)
〔新治・筑波は茨城県の地名〕
と歌に詠んだところ,
そこにいた
「かがなべて 夜には九夜 日には十日を」
(日数を重ねて 夜は九夜 昼は十日でした)
と詠み返した。そこでこの翁の聡明さを誉めて
つまり, “4-7-7”の片歌での問いかけに対して “5-7-7”の返歌でこたえたもので, この形は現代の連歌の形とは異なっているが、この故事によって 連歌は「筑波の道」と呼ばれ、この地が「連歌の発祥の地」と言われるようになった。なお, つくば市にも「連歌発祥の地」碑が建っている。
後日訪問してみると、説明板は、酒折宮の拝殿近くに移設されており、酒折宮鳥居近くには現代文字の読みやすい石碑も設置されている。当地の迩比婆理都久波袁須疑弖の碑はすっかり文字が読めなくなっていて酒折宮の説明は新たに追加されたようだが連歌の碑については放置され忘れ去られようとしている。
写真
碑文
酒折宮古天神
甲府市酒折町、酒折御室山(月見山)の中腹、ここ古天神は酒折宮の境内地です。古天神の南には、巨石に万葉仮名で彫られた連歌(片歌問答)の碑があります、古天神には日本武尊を祭神とする酒折宮石祠(明和4年・1767)と藤森大神石祠(宝暦13年・1753)がまつられ、古くから信仰の地とされてきました。
景行天皇の皇子で伝承上の英雄日本武尊が東征の帰路、甲斐国酒折宮にとどまりました。その夜に、皇子が「新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」と答えたので、皇子は聡明な老人を誉めました(『古事記』『日本書紀』)。この片歌の問答が連歌の期限とされたことから、酒折宮は連歌の発祥地と言われるに至りました。
酒折宮には江戸時代から多くの学者・文人の参詣が絶えません。酒折宮には本居宣長撰文の「酒折宮寿詞」、山縣大弐撰文の「酒折祠碑」が立てられ、老人が授かったと伝えられる火打ち袋がご神宝となっています。酒折御室山は三角錐形の「神奈備山」といわれる山で、大和三輪山のように山そのものをご神体と見なしたといわれています。(略)
平成23(2011)年
酒折宮
山梨学院大学
Sakaori Renga Awards
古天神とはご祭神である日本武尊が酒折宮に御鎮座したのは、今から一九〇〇年前、月見山の中腹であるこの地に当初の酒折宮はありました。
月見山は三角錐のかたちをした「神奈備山(かんなびやま)」と言われる山で、当時は山そのものがご神体と見なされ人々の信仰を集めていたとも考えられています。
酒折宮の旧跡「古天神」の周辺には古墳やたくさんの石造物が点在しており、考古学的価値のたいへん高い場所であると言われています。
迩比婆理
都久波袁須疑弖
伊久用加泥都流
迦賀那倍弖
用邇波許許能用
比邇波登袁加袁山梨県知事 望月幸明 謹書
連歌発祥の地
景行天皇の皇子日本武尊は, 蝦夷征服の帰 途, 「日本書紀」によれば, 常陸を経て甲斐国に入り,
此処 酒折の宮にしばらく居られた。
着宮の夜, 皇子が歌をもって
新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる
と問われたのに対し,秉燭人 が
かがなべて 夜には九夜 日には十日
と唱和した故事は有名である。
後世, 連歌を「筑波の道」と呼ぶのもこれによるもので, 歌体は片歌 ながら, 連歌の濫觴 (はじめ)とされており, 当地を訪れた文人墨客が多かった。昭和六十一年七月 小野成三 奉納