日本人による 洋式システムの 最初の 競馬
にっぽんじんによるようしきしすてむのさいしょのけいば
東急池上線 池上駅と蓮沼駅の間、また東急多摩川線 矢口渡駅からもそう遠くない住宅地、池上福祉園(大田区池上6丁目40-3)の向かいに、小さめの広場があり、入口の左側に小さなステンレス製と思われる碑がある。その周りを飾る金属フレームに、模様と同化したような自然な感じで「徳持ポニー公園」と書かれている。
このあたりに競馬場があったということから、公園の名前に「ポニー」が冠されたのだということのようだ。
横浜や神戸の居留地をはじめ、各地で競馬は開催されていましたが、馬券販売は非合法でした。馬券販売が黙許されていた横浜以外の各競馬場の経営状態はよくなく、東京の競馬場は明治31年(1898) までに閉鎖となる。
時を同じくして日清戦争・日露戦争等で大陸に出向く軍隊において、その軍馬の貧弱さの改良が望まれていました。馬匹の改良には軍馬需要だけでは馬産家の意欲があがらず、良馬生産のためには効果的に馬産家が儲かることを目的に、馬券販売で儲かる競馬へ馬匹を供給させようという風潮が芽生える。競馬の賭博性を内務省等が問題視したが、政府は非合法のまま黙許、明治39年(1906) 11月に、日本人による洋式競馬がはじめて池上競馬場で開催された。馬券発売を伴う競馬運営経験者が少ないため、横浜競馬を取り仕切っていた日本レースクラブの外国人の手を借りていたという。池上競馬場はコース長1mi(1609m)、幅18間半(約33.6m)、手本とした横浜競馬場(根岸)に倣って右回りだった。
そこから一気に馬券販売を伴う競馬が全国で過熱。その熱狂ぶりから競馬場も営利に走り、不正も横行。競馬場のみならず政府もマスコミに攻撃され、ついに明治41年(1908)、馬券が禁止される。馬券販売の無い競馬は庶民から見向きもされず、目の色変えて儲けていた時から一転、閑古鳥の鳴く状態となり、政府がいくらか援助をするも到底運営できなくなった。東京競馬会(池上)、京浜競馬倶楽部(川崎)、日本競馬会(目黒)、東京ジョッキー倶楽部(板橋)が統合され、明治43年(1910) にJRAの前身となる東京競馬倶楽部が設立。そして目黒競馬場を使用することとなり、池上・川崎・板橋の各競馬場は閉鎖となった。(やがて目黒も手狭となり、府中に移転した)
ちなみに、東急 池上線はこの公園の東側を南北に走っており、少し北の池上駅に至る手前で西にゆるく弧を描くようにカーブしている。このカーブは競馬場を沿う形なのかと思い、今昔マップを見てみた。
位置・形状等はなんとなくそういう雰囲気だが、競馬場に合わせて曲がっているということでもないようだ。よく調べてみると、池上線は大正6年(1917)開業なので、競馬場と時期が重なっていない。 ˉ̞̭ (ノ≧ڡ≦) ˄̻ ̊
写真
碑文
池上競馬場について
明治39年(1906)から明治41年頃、池上村(現在の池上6〜7丁目付近)に競馬場がありました。
日清・日露戦争後の当時、政府は軍馬の不足解消と資質改良を目的として海外から優秀な種馬を輸入するとともに競馬界の設立を奨励しました。
そして明治39年11月24日、日本人による洋式システムの最初の競馬がこの池上競馬場から開始されたのです。しかし競馬熱が異常に高まり弊害を生じる事態になったため、明治41年政府は馬券の発売を禁止し盛況を誇った池上競馬場もわずか3年で廃絶となりました。
大田区立郷土博物館 博物館ノート№61より抜粋