産学 連携 発祥の碑
さんがくれんけいはっしょうのひ
小海線・しなの鉄道 小諸駅のすぐ西にある小諸義塾記念館(小諸市古城2丁目1-7)前庭に記念碑が設置され、令和7年(2025) 7月20日除幕となった。
小諸義塾では塾生の教育にあたり、地元の農家や産業現場と直接関わりを持ちながら、農業や蚕糸業などの技術向上を目指す取り組みが実施された。教育機関が地域の産業界と協同して技術や知識の発展を図ったこの実務的な教育方針が、日本における初期の産学連携の形態と位置づけられている。
小諸義塾は明治26年(1893) に耳取町の民家等を借りて開校した。翌年には生徒数の増加に伴い、小諸城の大手門へ仮校舎を移転。明治29年(1896) には小諸駅の南側に木造2階建ての新校舎を新築・再移転した。島崎藤村が教鞭を執り、産学連携の先進的な教育活動が行われた本拠地は、この小諸駅南側の校地である。人文科学教育にとどまらず、地域の産業振興に寄与する実学教育も行われた。しかし残念ながら財政難により明治39年(1906) 3月に閉校となった。
小諸義塾の閉校後、その教育の受け皿として小諸町立小諸商工学校が設立され、義塾の校舎がそのまま移管・使用された。本校舎が建っていた小諸駅南側の跡地には、現在「小諸義塾跡」の記念碑が建てられている。
小諸商工学校は、小諸駅拡張の影響で手狭となり、明治42年(1909) 4月には、小諸町字熊野前(現在の小諸市立野岸小学校がある場所)に転出。翌年からは、広い園舎を求めて商工学校跡地を小諸教会附属 小諸幼稚園が利用。
その後、市内の医療関係者へ売却された。旧小諸宿本陣問屋場の敷地内(旧田村医院敷地)へ移築され、「田村医院」の診察室や病室として長年使用された。平成6年(1994) に田村家から建物が小諸市へ寄贈された。これを受けて市が解体・復元工事を行い、本来の校地(小諸駅南側)の線路を挟んだ向かいにあたる現在の懐古園内に「小諸義塾記念館」として再移築・復元された。
なお、小諸商工学校は後に長野県小諸高等学校および長野県小諸商業高等学校へと歴史的に継承されたのだが、令和8年(2026) に統合されて長野県小諸義塾高等学校として新たに開校した。
産学連携発祥の碑……
— 萌旅調査官@グリーンエイジの交差点2020成功感謝! (@micky1359) October 15, 2025
そ〜なのか〜 pic.twitter.com/30AVW9Pbbt
写真
碑文
産学官連携発祥の碑
産学官連携発祥の碑
木村熊二と塩川伊一郎
塩川伊一郎(初代)は、弘化3年(1846)柏木村(小諸市)の小山家に生まれ、森山村(小諸市)の塩川章三郎の養養子となり、農業と大工の棟梁を生業とし、桃木を趣味としていた。伊一郎は、浅間山麓の寒冷で火山灰が堆積する農村を豊かにしていくために、様々な栽培を試みたが、なかなか思うようにいかなかった。
そこで、米国で学んだ小諸義塾塾長木村熊二を訪ねて教えてを乞うた。熊二は伊一郎の高い志に心を動かされ、森山を訪れて土壌や風土について調べた。熊二は伊一郎の「森山村に来りて種民救済の演説を為し呉れ」との依頼に応えて、明治29年(1896)、森山村で演説し、桃を栽培するように助言した。演説を聞き、伊一郎の息子清太(後の二代目伊一郎)ら8人が、桃を森山で栽培しようと考えた。熊二は桃の苗代として金十円を贈って励ました。(当時の養蚕の家賃は月三円)
桃の栽培を目指した仲間は、土地を借りて開墾し桃苗を納めた。桃苗の切った先は伊一郎が接木して本数を増やしていった。熊二は、後に「これぞ森山へ桃樹栽培の初期なりき」と記している。消毒の方法や肥料については、北佐久農業学校から指導を受けた。まさに「産学連携」の新しい事業が発祥したのである。
3年がたち桃の木は実をつける。生桃は長野や東京では、傷みやすいため安く買いたたかれた。この状況をみた熊二は、生食以外の販売方法を考え、東京の果器組合長に助力を依頼してくれた。熊二の助言によって、明治34年(1901)森山に「日本桃缶合資会社」が誕生した。初年度の生産は桃缶詰13,000本、ジャム及びゼリー3,000本余であった。桃の加工によって桃の栽培価格は増え、農家の収入も増えていった。しかし、桃がたくさんとれると、農家から買い上げる値段を安くした。この経営方針をめぐる意見の違いから、伊一郎ら9人は、新しく「塩川缶詰合名会社」を立ち上げた。新会社設立のための資金に苦労しつつ、原料は後刻の現物で支払うという約束で借りることができ、いよいよ缶詰作りが始まった。
そうした中、初代伊一郎は明治39年(1906)3月病のためにこの世を去った(60歳)。熊二は、「伊一郎君は余と同型して、森山村へ桃を栽培せし人なり。今日の盛況を見るを得たるハ、同君の事業の力ともいうべし。可歎なり。」となげいた。小諸義塾もその年に閉塾となり、熊二は失意の中、長野へ去っていった。
二代目伊一郎は、特許を取った剥皮器や核抜器によって高品質の桃缶を製造していった。工場の稼働期間を延ばすために、苺ジャムの製造を考え、三国の水田に苺の栽培を広め、さらには、春の早い関外の須坂でも苺の栽培をして、ジャムの生産を拡大していった。
工場収益が上がり、その資金を使って、伊一郎は水力発電・林業・農学校の充実など、地域の発達に向けた新しい夢を抱いて実行に移そうとしていた。しかし、その時すでに伊一郎は病におかされており、大正14年(1925)8月帰らぬ人となった(57歳)。
二代目伊一郎亡き後は、妻のすみのと、三代目伊一郎によって缶詰生産が続けられていたが、太平洋戦争が始まると、軍事統制によって昭和17年(1942)に篠ノ井の長野缶詰に統合されて、会社は時代の流れの中で閉鎖されることとなった。
明治の中期、小諸の地で小諸義塾塾長木村熊二と農家塩川伊一郎父子とによって産学連携による新しい産業が起こり、六次元産業化が実現した偉業を忘れてはならない。
また、「塩川缶詰合名会社」が、製造した高品質の苺ジャム缶が明治天皇に献上された4月20日を記念して、「ジャムの日」として制定されたこともあわせて末永く語り継いでいきたい。『塩川伊一郎評伝』編著者 小諸市立野岸小学校 元校長
小林 攻
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