島津発祥の地 都城

しまづはっしょうのちみやこのじょう

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えびの高原線(吉都きっと線)谷頭たにがしら駅から西に約9km、薩摩迫館ざこやかた跡の看板に記されている。

薩摩迫館跡は、島津氏全体の島津姓発祥の地という意味ではなく、都城島津家につながる北郷氏の発祥地として重要な場所である。都城市は島津発祥の地を、島津荘に由来する島津姓の発祥という広い意味でも説明している。鎌倉時代、惟宗これむね忠久ただひさが島津荘の下司職に任じられ、その後「島津」を名乗ったことから、島津の由来の地とされている。

一方、薩摩迫館跡に直接つながるのは、島津本家4代当主・島津忠宗ただむねの六男、島津資忠すけただである。資忠は筑前国金隈かねのくまの戦いでの功績により、文和元年(1352) に足利尊氏から島津荘北郷300町を与えられたとされる。そして同年12月、現在の都城市山田町古江にあたる薩摩迫に館を築き、地名から「北郷」を名乗った。これが北郷氏、すなわち後の都城島津家の始まりである。

薩摩迫館は、北郷氏が都城に進出した最初の本拠地であった。その後、2代北郷義久が永和元年(1375) に都島に都之城を築き、居城を移したとされる。都之城の名が現在の「都城」という地名の起こりともされている。したがって、北郷氏の歴史は薩摩迫館から始まり、都之城へと発展していったことになる。

現在の都城市が「島津発祥の地」として紹介する歴史の中でも、薩摩迫館跡はそのうち北郷氏・都城島津家の成立を示す重要な史跡として位置付けられる。

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碑文

島津発祥の地 都城

その昔、都城を中心として、「島津荘」しまづのしょうと呼ばれる国内最大級の荘園が成立しました。のちにこの荘園の管理をまかされたのが惟宗これむね忠久ただひさ。彼は、この荘園の名から「島津」を名のるようになり、島津氏の始祖となりました。

薩摩迫館大手口跡
薩摩迫館跡
都城島津家発祥の地

薩摩迫館跡

薩摩迫館跡は、島津本宗家4代忠宗ただむねの6男・資忠すけただが文和元年(1352) の合戦での功により足利尊氏から北郷ほんごう300町(現在の都城市西部地域)を与えられ館を構えたとされているところです。資忠は、その地名から「北郷」を名のるようになり、ここから都城島津氏のルーツである北郷氏の歴史が始まりました。 上の旧麓図きゅうふもとずは寛政10年(1798) に作成されたものです。上段に領主と重臣の屋敷地が、下段には家臣の屋敷地があったとされています。これまでの発掘調査で中世の中国製磁器などが出土しています。現在地は、薩摩迫大手口(出入口)があったものと思われる場所に、歩道を整備したものです。

都城島津邸

都城島津邸は、南北朝時代から都城の領主であった都城島津家の明治以降の邸宅で、丘存整備計画は国の登録有形文化財になっています。邸内には史料館を併設しており、1万点にも及ぶ都城島津家関係の史料を収蔵、展示しています。

東霧島神社

霧島六所権現として親しまれている神社で、地元はもとより島津藩主からも厚い信仰をうけてきました。数々の伝説・伝承が残されており、「神石」や鬼が一夜で積んだといわれる「振り向かずの坂、鬼岩階段」などがあります。

高城郷土資料館

南北朝時代、南朝方の武将肝付兼重きもつきかねしげが築城したといわれる月山日和城跡がっさんひわじょうあとにたつ資料館です。 館内には、都城盆地を統一し、この地で晩年を過ごした北郷氏ほんごうし8代忠相ただすけゆかりの鎧や江戸時代・明治時代に活躍した高城の豪商、後藤家にまつわる貴重な資料のほか、高城地域の歴史・民俗に関する資料が数多く展示されています。

山之口麓文弥節人形浄瑠璃資料館

国指定の重要無形民俗文化財である「山之口麓文弥節人形浄瑠璃」の資料館。島津氏の参勤交代の折、随行した郷士達が大阪・京都で流行していた人形浄瑠璃を習い覚えて、道中の疲れを癒すために操ったとされています。郷士達が持ち帰った技は、現在も大切に伝承されており、年4回定期公演が行われています。

地図

地図

都城市山田町中霧島 付近 [ストリートビュー]