新城の地名 発祥の地

しんしろのちめいはっしょうのち

飯田線 新城しんしろ駅から南南東に800m。新城小学校(新城市西入船76)の校庭の奥、南端にしろあと資料館”と名づけられた古い木造の建物がある。その正面に黒い石碑が建っている。

新城小学校のあるこの地は 新城城しんしろじょうの城址。運動場は本丸の跡、学校の正面には城門を思わせる復元された門があり、土塁の跡や深い堀も残されている。豊川に臨む断崖を利用した城郭であった。この城の名前が「新城市」の地名になっている。

織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼が戦った長篠の合戦(天正3年=1575)の後、長篠の城主・奥平信昌は 家康の長女亀姫を娶り ここに城を築いた。長篠城の“旧城”に対して新しい城という意味で「新城」城と名付けた。

その後家康が江戸に移ると 奥平氏はそれに従って関東に移り、城主は片桐・水野・菅沼と代わり明治維新まで続いた。

写真

  • しろあと資料館
  • 新城の地名発祥の地
  • 新城城址の整備について
  • しろあと資料館
  • 開校百二十周年事業について 碑文

碑文

新城
新城の地名発祥の地

新城城址の整備について

平成十九年度は,新城小学校が小学校令により,明治二十年に「新城尋常小学校」として開校してから百二十年目に当たる記念の年です。そこで,「開校百二十周年記念事業実行委員会」を立ち上げ,記念事業を計画しました。
 まず,平成十七年十月に旧新城市,鳳来町,作手村が合併し,新しい「新城市」が誕生したことを踏まえ,「新城」の名の発祥の地である新城城址を整備し,「新城の地名発祥の地」の石碑を設置したいと考えました。さらに,多くの同窓生が学んだ思い出深い「木造校舎」の充実(玄関の修復や資料の収集,展示室の改善等)を図り,歴史遺産である土塁と一体化させ,子どもの学習に役立たせたいと考え,平成十八~十九年度にかけて,次のような手順で整備を進めました。

  • 考古学の先生に現場を見ていただき,今後の整備計画を助言していただきました。
  • 「しんしろおやじの会」の皆さんに依頼して,体育倉庫の移転や古いフェンスの撤去をしていただきました。
  • 体育倉庫から木造校舎に引っ張ってある電線を地中に埋設しました。
  • 老人会を初めとしたボランティアの方に援助をいただき,竹及び灌木を伐採しました。
  • 土塁の東側は崖で危険なため,安全を図るための対策として土塁上面のさつきを整備しました。
  • 「新城の地名発祥の地」の石碑を建立しました。
  • 新城城址に関する説明板を設置しました。

 そうした折,たくさんの庭石寄贈の申し出があり,記念庭園をつくることもできました。
 なお,新城城址の土塁の保存に際しては,第二十代校長,中西光夫先生のご尽力と市当局のご配慮,並びに土塁地主の天野様の格別なご理解があり現在に至ったことを付記します。

平成十九年八月 開校百二十周年記念事業実行委員会

実行委員長  藤原眞治
新城小学校長 原田純一

地図

地図

新城市東入船 付近